「景嗣先生、勉強する意味って何なの??」その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は、「『景嗣先生、勉強する意味って何なの??』」シリーズの「その2」に該当する。

本稿を読み進めるにあたり事前に「その1」を読んでおくことを勧める。

下記リンクより、「その1」記事を参照されたい。

「景嗣先生、勉強する意味って何なの??」その1

それでは、始めさせていただく。

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勉強をするという行為を通じて・・・

相手の言わんとする理論を受け容れる懐の深さを育み、優しく手寧にその意図するところを咀嚼解釈して、それを踏まえた上で自分の意見を柔らかく発信する力を養うことができると思う・・・・

つまりは、勉強するという行為そのものを通じて

「人間力」を養うことができるという見解である。

 

これは、勉強した科目内容が直接稼得能力の向上に寄与し得るか否かという、近視眼的なスケールの話ではなく・・・

人生をよりよく生き、よりよく生涯を閉じていくという、長期的なスパンで人生を見た場合の、勉強することの意義である。

 

本稿においては、もう少し具体的な資料を用いたうえで、ダラダラとお話させていただき、最終的に表題の「勉強する意味」につなげられるようなオチに持っていけるようなお話をさせていただきたい・・・

 

読者諸君は、下記の本を御存知であろうか??

「ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問-穴からのぞく大学講義」

私が20歳くらいの頃に話題になった本だ。

約7〜8年前くらいに出版された本である。

 

ドーナツと言えば、周知のとおり、パン生地を環状に繋げてコンガリと焼き上げるお菓子のことである(何で焼くんやろか??ww)。

その形状から生地中央には丸状の空間(「穴?」)ができているのが一般的とされるお菓子である。

当該本は、このお菓子にある「穴」だけを残して食べる方法について、大阪大学が誇る各分野の教授陣を招き、各分野の考え方を用いて、この問題について検討を行うといった内容である。

分野は多種多様。物理学・化学・数学・合理派などの数理科学のアプローチもあれば、経済学・統計学といった情報社会科学からのアプローチもある。また、中には芸術学の観点から哲学的な話に落とし込んで話をする学派もある。

 

多様な学問を嗜む身としては、どの学派の理論も非常に興味深い。

その中に、「法律学アプローチ」の理論もあった。

大阪大学の法社会学の教授の論評であったのだが、これが非常に興味深かった。

私も法律学を研究していた身として、拝読したのだが、彼の考え方と私の考え方のパターンがかなり似ていたことに感動したのを覚えている。

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法律学というのは以下のようなニュアンスの学問である・・・・

立法府が制定する法条文。

あらゆる状況に対応ができるように「曖昧かつ難解な文字羅列」で綴られる法条文。

司法府や法学者たちは、その条文に綴られる「単語」に内包される意味を、当該条文の制定された趣旨や適用されるべき場面を想定しながら、解釈して読み説くのである。

その文言の意味内容を解釈したうえで、適用範囲の射程範囲を見定め、各事案へのあてはめを行い、一様の解決を図るのである。

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難しい表現で大変恐縮である。

で、今回のような

「ドーナツの穴だけ残して食べる方法」という抽象的命題を突きつけられて、考えることというのは・・・・

 

そもそも・・・

「穴」という文言は、そもそも何を意味しているのか??

ということである・・・・

 

ヒトクチに「穴」とは言っても、その意味するところが必ずしも「ドーナツ生地の真ん中にできている丸状の空間」と即座に決定するわけではない。

 

例えば、「穴」というのは、「落とし穴」のような「窪み」という意味もある。

すなわち、「ドーナツ生地を用いて型どった窪み」もある意味では「穴」と言えなくもない。

 

つまりはこうだ・・・・

サラダボウルに砂糖や小麦粉などの粉末を大量に入れる。

その粉末の上にドーナツ生地を置く。

想像してほしい。ドーナツの形状上、真ん中に小島がありその周囲を囲うように円状の「溝」ができるであろう。

これがいわゆる、ここで意味するところの「穴」である。

ドーナツを型どって造った「穴(窪みというか溝)」を残したまま、ドーナツ生地を食べれば・・・・

命題の達成である。

 

また・・・・

僕が真っ先に思い付いた案はこれだ・・・・

スポーツを嗜む読者諸君ならピンとくる方も多いと思うのだが・・・

何かしらの団体競技において、相手チームにいる出来損ないのプレイヤーのヘタクソなプレイが目立っていたとする。

アナタは心の中でこう思うのではなかろうか・・・・

「アイツがこのチームの『穴』である」と・・・

・・・・・・

・・・・・・

「穴」というコトバの意味するところは、何も空間関連の意味だけに留まらない。「成果物の『出来損ないの部分』」にも「穴」という表現を用いる場合があろう。

 

つまりはこうだ・・・・

ドーナツ生地をオーブンで焼くに際して、設定時間を少し多めに見積もるのだ。

想像してほしい。焼きあがったドーナツには「焦げ」になって、食するに堪えない部位がいくつかでてくるように思う。

この「焦げ」を食用に適さない「穴」と表現することも可能であろう。

というわけで、その「焦げ」の部分を取り除き残した状態で、ドーナツを食べて行けば、命題の達成というわけである。

 

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どうであろうか・・・・

一休さんの話にでてくるトンチのようなものに過ぎないか??

あるいは屁理屈であろうか??

 

そんなことはない。

法律学というのは得てしてこんなもんである。

 

多角的な見方を行い。文理解釈上の齟齬さえなければ、一見限りなく黒く見えるグレー色のものでさえ、「白」と言い切ることだって可能なのである。

世の中の法律的インフラというのは、こういう思考パターンで動いているといっても過言ではないのである。

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・・・・・

さてさて、こういう話を大衆に向けて発信した際に、

読者諸君はどのような反応をするであろうか??

「実に興味深い」??

「しょうもないコトバ遊びだ」??

「そもそも難解過ぎて、数行読んで別のページに飛んだ」??

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きっと、私がこの本に書かれている理論の内容をどれだけ声高に紹介しようとも、読者の属性次第では、まったく1円の価値もないほどしょうもない話に思われたり、新たな発見と視座を提供し得る価値あるものとして認識されたりなど、価値の振れ幅はそれこそピンからキリまであるだろう。

学問を追究した先の成果物なんて、所詮そんなもんである。

 

ここで、学問内容の価値という狭い視点からもう少し広い範囲に目を向けて語るとするならば・・・・

少なくとも、私自身、たった1500円ぽっちで買った本の内容に感銘を受けて、何時間もその本を楽しく読むことに費やすことができ、その感動をこうしてブログ記事にして読者諸君に伝えることができている。

 

無学な誰かにとってはしょうもないコトバ遊びと思われることでも

「楽しい」と認識することができている。

これはきっと、学問を嗜むという過程で、学問的な知識を頭の片隅に遺し続けてきたおかげだなあ、今になって思うわけである・・・・

 

人間は、学問し知識を得る中で、自分の関心ごとの範囲が広まるわけで・・

それに伴いおのずと、目の前に映る世界の中で「自分が楽しいと思えること」が単純に増えていくわけである・・・・

 

人生というのは、わりとイヤに長いものである。

私自身、命を捨てられるものなら、早く捨て去ってしまいたいほどに、人生については痛みを覚えることばかりである。

いつまで、こんな痛みに耐え続けなければならぬのか、とイヤになってしまうほどに・・・・

そんな、ただでさえ腐った人生に、楽しみのひとつもない、というのはあまりにも寂しく空虚であると言わざるを得ない。

 

学問するということは・・・・

自分の関心ごとの範囲を広げていき、

自分の目の前に広がる腐った景色に少しでも「楽しいと思えること」を増やすことではないか、と思うのである・・・・

 

こういう意味合いで・・・・

人間は、学問を通じて、人生を豊かにすることができるのではないか、と思うのである・・・・

 

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あまりにも、こじつけた結論だろうか??

文章にしてしまうと何だか味気ない感じが否めない・・・・

 

でも、今、大学院修了の能力が全く必要とされない職を淡々と毎日こなすなかで、時折思うのだ・・・

「中卒程度の学能の自分がいまの職について生活していたらどうなっていただろうか」と・・・

たぶん、今の職なぞ、中学を卒業しておれば、簡単にできるであろうし、むしろ、高校・大学・大学院に通うために支払った大金と時間をセーブしてムダのない人生が何事もなく流れていたであろう・・・・

 

だが・・・・

きっと、仕事終わりの、プライベートの場面になって・・・

僕は、人生に何一つ「楽しいと思えること」を見つけることができないんだろうなと思うんだ・・・・

 

Twitterで哲人ツイートを毎朝流したり、こうしてブログで哲学的なコトを記事にさせて頂いているが・・・

きっと、文章にして発信する能力もないばかりか、「これは哲学的だ!!」と感動を覚えるモノの見方すらできず、人生に感動を覚える瞬間さえないような自分になっているように思うのだ・・・

少林寺拳法や仏教、キリスト教などの人文学の考え方ひとつをとっても、そこから何も学び取ることもできずに歪んだ我に固執したまま、哀しく生涯を終えているだろうとさえ思う・・・・

 

仕事やお金に困らなければ良いというわけではなくて・・・

ふと仕事や家事といった時間から離れて、自分自身と向き合わなければならない時間が誰しも出てくるはずだ・・・・

仮に自分が無学であったとするなら・・・

人生が突き付けてくる「空虚な時間」と孤独ながらに闘うも対処の仕方がわからず、脅迫観念を覚えて、たちまち心が壊れてしまうかもしれないと思うのだ・・・・

 

きっと、勉強をしてきた時間と数だけ・・・・

自分は無意識にその「空虚な時間」の中に「娯楽」を見つけることができ、豊かな生活をおくれているのではないか、と思うのだ・・・・

 

・・・・・

・・・・・

勉強をする意味を問うか??若者よ・・・・

今は、その意味もわからないまま、知識を詰め込まれて、さぞ苦しいかとは思うが・・・・

・・・人生とは、イヤに長いものだ・・・

何も知らない、何も興味がない自分でいたのでは・・・

おそらく、生きることがイヤになるに違いない・・・・

 

勉強してきたことというのは・・・・

キミたちの後々の人生をきっと豊かにしてくれるはずだから・・・

 

騙されたと思って、勉強してみてほしい・・・・

 

何らの社会的な功績を残せぬまま隠居生活に入ってしまった27歳の老いぼれの言うことだ・・・・

冗談半分に聴いてくれればそれでいいよ・・・・

 

今、勉強させてもらっている環境に・・・

感謝の意を忘れてはならないよ・・・

 

その勉強させてもらった時間が

キミの人生を必ず豊かにしてくれるのだから・・・・

以上

景嗣

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