「景嗣先生、勉強する意味って何なの??」その1

どーも、景嗣です。

 

先日、Twitterのフォロワーさんである

高校生の女の子から、ダイレクトメールがきた。

内容はこうだ・・・・

 

「景嗣先生、私たちって何のために勉強するの??」

「目的もわからないまま、何となく勉強をやらされてる状態が少し苦痛・・・なんだか私自身もよくわからないけど、とにかく思い悩んで身が入らない・・・」

 

まぁ、だいたいこんな感じの内容のダイレクトメールが飛んできた。

 

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「また、これかぁ・・・・」

 

知ってる方もいらっしゃるとは思うが、私、景嗣は、

アルバイト身分で、約8年間ほど塾講師として働いたことがある。

私が小4〜高校3年生まで生徒としてお世話になっていた塾だ。

当然、その学年で私は偏差値72で常にトップの成績を修めていた。

大学生以降になって、講師として働かせていただいていたのである。

 

対象は、小学生・中学生・高校生。

科目は、主に、英語・現代文・古典・漢文・政治経済が多かった。

ときには、数学ⅠA・ⅡB、物理などの理科も教えていた。

基本的にオールラウンダーの主戦力講師として、イロイロと立ち回らせて頂いていた。

 

今までたくさんの生徒に勉強を教えて、志望校に合格させた実績がある。

 

多感な時期の子どもたちとコミュニケーションをとる中で・・・

 

「景嗣先生、何のために勉強するの??」

「こんなこと勉強して、本当に意味あるの??」

 

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これは腐るほど聞いてきたコトバなのである・・・

 

受験勉強の最中で苦しい精神状態のなか、ポロっと吐き出す弱音でもあれば、将来に対する漠然とした不安から漏れるコトバでもあったり、あるいは成績というヒエラルキーで値踏みされ不遇を受ける子どもたちの歪んだ精神状態からくるコトバであったり・・・・

 

同じコトバでも、それを奏でるトーンは子どもたちの境遇によって様々であはある。

 

私自身、教育塾における講師というイチ商材に過ぎない立場なので、ほぼマニュアル染みたトーンでだいたいこのように切り返していた。

 

「勉強して、有名大学に入れば、将来の進路の選択肢が単純に広がる。何がしたいかが明確ではなくとも、まずは選択肢をつくるという作業をしておけば、やりたいことがいざ見つかったときにそれを為せる可能性が高いよ。だから勉強するに越したことはないさ」

 

小学生・中学生・高校生の経験値の浅いガキんちょの世迷言。

最初からどんなコトバをかけても納得しないであろうし、

それらしいことを言ってスルーして、本人が人生経験を積んで「これは!!」と思う瞬間に出くわし、本人の中で納得する答えを見出してもらうように心で願うしかなかったわけで・・・

 

8年間というベテラン塾講師ではあるものの

テクニックばかりで、イデオロギーのひとつやふたつ後世に遺すことのできなかった大したことのない講師だった。

 

さて・・・・

時を経て、現在、私は塾講師業を離れてみて、利害関係がゼロになった状態で改めて考えてみるわけだ・

 

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「人間、何のために勉強するんやろなぁ・・・・」

 

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27歳、俗世を離れた哲人、景嗣が

この率直な疑問に対して、一定の解答という体裁にはならずとも

この疑問に対して感じる想いをここに取り留めもなく伝えさせて欲しい。

遺させてほしい。。。。

 

私の個人的な見解さ。

( ´_ゝ`)フーンくらいの心づもりで見流していって頂きたい・・・・

 

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私自身、経歴としては、わりとアカデミックである。

小・中・高と偏差値は72あったし、

有名大学の法学研究科の前期課程を修了している。

個人的な感想ではあるが、私は人生において、並の人と比較すれば、勉学に励んだ部類に入るであろう。

 

ここまで勉強してきた事実だけを切り取れば、生活も恵まれてて順風満帆な生活を送っていたのであろうと思われるかもしれないがそういう訳でもない。

重病を抱えていたのに加えて、成績が良かったこともあって、小・中・高、すべての学年においてイジメを受けていたし・・・・

大学院時代に、右目の失明や父親の急逝もあって、精神的・肉体的にも壊れてしまい、進路選択もうまくいかずに人間関係に潰されて職を転々としている始末である・・・

 

正直、今の仕事なんて、大学院修了の実績なんてまったく必要のない仕事をしている・・・・

 

正直に告白すると・・・・

 

現状、あれだけ勉強してきて、この現状・・・

 

「あれだけお金をかけて勉強してきた意味はなかった・・・」

 

ふと気を抜くと、このような愚痴が出てきてしまいそうなくらい、そう思っているところはある。

 

そういう思いを抱き続けて、中小企業・零細企業を転々とする生活をしていた・・・・

 

「学歴なんて、影響力のある人に媚び気に入られる能力が無ければ、まったく意味を為さないな・・・」

卑屈に思えるだろうが、ぶっちゃっけ高学歴・低レベル職の僕にとってはぶっちゃけのホンネである・・・・

 

だが・・・・

人生27年・・・・

少林寺拳法やTwitterなど・・・

良きも悪きも色んな種類の人間との出会いと

自分を見つめなおすことを通じて・・・

以下のような、感覚を得たことをここに告白しておこう・・・

 

大学院に入学して、多種多様な文献を「食物を食べるかのように」咀嚼していった。

最初のうちは、書いてある学説見解を拾いあげ列挙するだけで精一杯、報告書に形だけまとめあげるのも精いっぱいな自分がいた。

ニュアンスでいえば「殴り書き」

不要必要の区別もいまいちつかないまま、報告書に落とし込んでいたのを今になって思う・・・

 

それが、「論文の虫」になる日々を通じて・・・

学説提唱者・反対学説提唱者の真意・意図・それを唱えるバック・グラウンドと理論の基本骨子、当該学説が適用される射程範囲の想定などを自然と吸収しようとする思考パターンが身に着いたのを実感したのである。

それに伴い、論文のクオリティーが向上していったのは言うまでもない。

 

驚くべきは、上記のような変化を経ると同時に自分の実生活に目に見える変化があったことである。

 

大学院入学当初は、他者の意見を受け容れる余裕もなく、我を突き通す性格であったものの・・・・

 

大学院を修了するころには・・・

「相手の主張を一旦受け容れて、相手の真意を尊重した上で、自分の考え方を発信することのできる自分でいたことに気づいた・・・」

 

文章にしてしまうとありふれた感じがしていまいち読者諸君の心に響かないのではないかと懸念しているのだが・・・

この感覚は、筆舌には尽くしがたいほどに実感として如実に表れた変化であったのだ・・・

大学院の生活を経て、実生活における人当たりが激変したのを覚えている。

 

以前までは、自分の我に固執して、批判意見に少しでも触れようものなら、攻撃的な論調で相手に突っ掛かっていたものの・・・

 

勉学研究に励むことを通じて、

「まずは、相手の言論の意図するところ、そしてその言論の源泉となるバックグラウンド・イデオロギーの読み取りを行うクセがついていた」

純粋な学術的な批判から誹謗中傷まで、ピンからキリまである意見に対して、より建設的な視座から反対意見を論じることが可能になった自分がいた。

 

特に家庭生活において、その効果はテキメン。

 

神経質なところがある母親との共同生活でも、

まずは、母親の言ってることを受け容れて、それに対して建設的な意見であったり、安心感を与えられるようなコトバを掛けられる自分でいた。

 

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・・・・・・

 

これは、僕にとっては、センセーショナルな変化だった・・・

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何だろうか・・・・

 

人間とは、勉強することを通じて・・・

相手の言っている理論を受け容れる懐の深さを育み、優しく手寧にその意図するところを咀嚼解釈して、それを踏まえた上で自分の意見を柔らかく発信する力を養うことができるのではないか・・・

 

思うに、この力は、人間社会を生きていくうえで、どの環境においても必要になってくる能力、

いわゆる、「人間力」と呼ばれる能力である。

 

このレベルになってくると・・・

もはや、勉強してきた内容が将来的に役に立つか立たないかという、プリミティブなスケールを大きく超えてくる・・・・

 

勉強するという行為そのものが

人間社会で生きるうえで大切な「人間力」を鍛えることに繋がる・・・

 

思うに

勉強するという行為そのものが、尊く貴重なのである・・・・

 

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文字数がエエ具合になったので、続きの話については「その2」で語ることにし、本稿「その1」ではここらへんで一旦終わることにしよう。

 

次回「その2」については明日以降に投稿する予定である。

お楽しみにしておいていただきたい。

 

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若者よ・・・・

勉強する内容科目ばかりに目を奪われてはならぬ・・・・

キミが勉強に費やした1秒1秒が・・・・

かけがえのない財産になっていることを

数年後には気づくことになるから・・・・

続く

景嗣

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