「人を裁いてはならない」ー 聖書から学ぶ処世術 その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は、「『人を裁いてはならない』-聖書から学ぶ処世術」シリーズの「その2」に該当する。

本稿を読み進める前に「その1」を事前に読んでおくことを勧める。

下記リンクより「その1」をご確認して頂きたい。

「人を裁いてはならない」ー 聖書から学ぶ処世術 その1

上記リンクより記事の事前確認をお願いしたい。

 

さてさて・・・・

このシリーズでは、キリスト教の経典のひとつである聖書に記されている一節を引用し、その中から現代人が学び得るものについて、噛み砕いて説明し、理解を深めるものである。

 

「人を裁いてはならない」

新約聖書マタイによる福音書6章7節にある教えから得られた教訓とは、

人間とは、自分の経験・思考の中で得た自分基準のモノサシ・フィルタを通じてでしか、世界を見ることができないものの、それを絶対的な世界の基準に据えて他者の在り方に土足で踏み入れることが人間関係のもつれの主たる要因であることを指摘し、

その上で、自分の有しているモノサシ・フィルタをいったん取り除いて、フラットな見方ができる状態で、他者と折り合う姿勢・余裕を持つことが大事であることを強調させていただいた。

 

本稿においては、私が実際に経験した実例を取り上げて、私がどのようにそれについて対処したか、そしてどのような考え方を行ったのかについて具体的に話していきたいと思う。

 

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私は、最近Twitterにハマっている。

フォロワー数も4000人をオーバーし、そこそこにインフルエンサーになってるように思うwww

 

毎朝、「哲人ツイート」なるものを流している。

まぁ、端的に言うと、「景嗣流の深イイコトバ」を呟くのである。

 

ある日、いつものように哲人ツイートを流した。

内容はこんな感じ。

 

「得れば失い、失えば必ず得るものあり」

「これは常世すべての理であるように思う」

「両極性が溶け合って存在するモノの見方ができれば、苦しみに囚われることはない」

 

ざっくりこういった内容のことをツイートさせて頂いた。

まぁ、普段通り、仲良しさんから、いいねやRT、応援リプライをいただき、非常に好調であったのだが・・・・

 

とある方から、このようなコメつきリツイートが届いたのである。

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失えば得るものあり?? 何をキレイごとをいってるのかしら・・・

この景嗣って人はきっと甘っちょろい人生しか歩んでいないに違いない。

私なんて、生まれつきブスで生まれて、障がいを持ってしまったために元夫に裏切られて、ツラい思いをしてきたというのに・・・

私は、この景嗣という男に私と同じ気持ちを味わってもらいたい。

この景嗣という方の顔に塩酸をぶっかけて差し上げて、私と同じような痛みと苦しみを味わってもらいたいものである。

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まぁ、なんというか・・・・

軽く傷害予告のようなものをされたことがあるwwww

 

これを見た瞬間に怖くなって心臓が2センチばかり浮かびあがるような気分になったのを覚えている。

いつ街中で塩酸をぶっかけられるのかと思うと、わりと恐怖である。

(とはいうものの、仮に実際に塩酸を顔面にぶっかけられたとしたら、私はその者の骨の原型が留められないまでに、ボコボコに殴打して叩きのめすであろう。喧嘩を売る相手が悪すぎるwww)

 

とはいえ、こんな返答がきて、本心かなり複雑ではあったさ。

私の人生経験を御存知の方はいらっしゃるだろうか??

ざっくり、私の歩んできた27年間を記したブログ記事があるので、下記リンクより参照されたい。

Journey through the rainy 27-27年の数奇な人生

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はっきり言うが・・・

私ほどの苦行を歩んできた者こそ、逆に少ないように思うのだが・・・

それにも関わらず、「この人はろくに苦労もしていない」と言われてるわけである。

正直、私自身、この無神経な返答に対して怒りの感情も沸いた。

 

こういう背景と私の当時の複雑な感情が生まれたという状況の中で、私はこのように考えるようにした。

 

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「この苦行を乗り越えた哲人景嗣のコトバを、自分の考える狭い世界観の中でしか評価することができない可哀そうで哀れな人間だな」

 

正直に言わせてもらうが、軽い障がいなんてものは、人知れず持っている者もいるわけであるし、裏切られるという話も「夫ありきの話」だろう?? まず結婚できたという事実だけでも、ハッピーなように思うのだが・・・

(私は右目を失明している・・・・)

 

私からすると、この者の人生経験の底の浅さが目に見えて仕方がなかったし、その浅い苦しみを乗り越えることもできず、他者を攻撃することでしか充足感を得られない様がいかに浅はかなのかを物語っている。

 

こういう人間は、まず、「話にならん相手なのである・・・」

怒りの感情を抱く価値さえなく、むしろ哀れで可哀そうな人種であると、上から目線で評価してやるのが相応の相手なのである。

 

相手のこのような軽率な言動に対して怒りを覚えてはいたものの・・・

この者にきっと私の価値判断や理念を込めた声は到底聴こえないのである。

 

新約聖書のコトバを借りるなら・・・

神聖なものを踏みにじり噛みついてくる駄犬畜生の類である。

 

コメントでキツイコトバを返してやる選択肢もあったのだが、おそらく理解しないであろうし、むしろコメント合戦になって炎上しかねない。

思うに時間と労力のムダである。

 

そういう相手に、自分の価値判断をかざして接しても効き目がないなら・・

自分のモノサシ・フィルタを外して接してやるのである。

紳士的に下記のように返信させていただいた。

・・・・・

〇〇様、この度は私の呟きにコメントを頂き、ありがとうございました。

プロフ、呟きをいくつかは拝見したところ、

とてもおツライご経験をなされ、気苦労なされたとお察しします。

人生イロイロとありますが、人生はわりと長いように思いますので、

どうかご無理をなさらず、お気持ち軽く持って生きてくださいね。

・・・・・

それはそれは、へりくだって上記のようなニュアンスの文章を返信してやった。本人は満足したのか、その後の返答はなく、この返信で事態は終息したのである。

 

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キーワードはこれだ・・・・

「駄犬畜生には、己の価値観というフィルタを外して接する」

 

この者は、私を浅はかであると裁いた時点で、私に「話の理解できん駄犬畜生」と鏡反射のように裁かれたわけだ。

この時点で、この者に対してすでに報いが下っているのである。

 

ここで、下手にこちらが良い(と思い込んでいる)とする価値判断をかざして話を進めたとして、それを踏みにじり噛みついてくるのがオチである。

それを踏みにじられると、きっと私は逆上するであろう。

なぜならば、それは私の人格を形どるアイデンティティに他ならないからである。

私もきっと頭に血がのぼり、誹謗中傷合戦がたちまち始まるであろう。

白日の下にそのやりとりが出てしまえば、たちまちネガティブなイメージが私に付きまとうことになる。

思うに、この駄犬畜生と同じ土俵に立った時点で負け試合なのである。

 

そういう相手には、自分の「丸太」すなわち、フィルタを取り去って、その者が見ている極々狭く稚拙な世界観の中で話をして話を終息させるのが良い。

 

親切心で窓際に追いやるのだ。

 

これは精神に余裕が無ければおそらくはできない。

 

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まあまあ・・・

このような実例があったわけで・・・

まぁ、個人的には一応マルをつけられる対処であったと思う。

 

まとめに入ろう。

まず、この者のように、他者の価値判断に関して、安易に自分の経験思考で良い悪いの判断を下さないことである。

この者のように、視野の狭さと思考の浅はかさを露呈し、周囲から「駄犬畜生」という謗りを免れないからである。

これこそが、「己の裁きで裁かれる」の意味するところである。

 

また、仮に一方的に相手方のフィルタで自分の価値判断にケチを付けられたとしても、自分の価値判断に基づいてそのケチに正面から反論しないことである。

あくまで、相手の見えてる世界観の中で、相手のわかる言語で穏便に対処することが肝要である。

 

どの状況下においても、他者と対面コミュニケーションを図る際には、自分の価値判断のフィルタを一旦取り払って、相手の価値判断の洞察を行うのが肝要であるように思う。

 

冷静に見方・考え方を変えれば、避けられる紛争は多いように思う。

 

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さてさて、ここまでの話を踏まえて、もう一度新約聖書の一節を噛み締めながら読んでみて頂きたい。

 

新約聖書マタイによる福音書6章7節

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

兄弟に向かって、「あなたの目からおが屑をとらせてください」と、どうして言えようか。

自分の目に丸太があるではないか。

偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。

そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。

それを足で踏みにじり、向き直って、あなたがたに噛みついてくるだろう。

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初見とはまた違った見方で、このコトバを噛み締めることができたと思う。

 

仏教の禅問答も然り、聖書も然り。

こういった人文学の解釈研究は、人間生活の改善におおいに寄与し得る有益な行為であるように思う。

ストレス社会で疲弊している現代人にとって、忘れ去られている「心の置き方」を教えてくれる有効な手段であるように思う。

 

私は、表現も下手くそであるし、使うコトバも拙く、読者諸君に伝えきれるかはわからないけども・・・

可能な限り、伝えていきたいと思う。

少しでも社会が住み良い環境になり、皆の幸福な生活に寄与できるなら、喜んで伝えていきたい。

以上

景嗣

 

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「人を裁いてはならない」ー 聖書から学ぶ処世術 その2” に対して1件のコメントがあります。

  1. N.M より:

    お疲れ様です。相手の言わんとする事を読まずに返信や罵倒に近いコメントするやからが多いですよね(笑)
    私も最近有りましたよね(笑)
    そもそも相手は意識レベルが違うんですよね。
    相手を理解しようとする心が無くて、自分の考えだけを言ってくる。話にならないですよね。自然界には良い、悪いは本来有りません。人が勝手に作ったルールが有るだけですよね。ただ明らかにいじめ、殺傷などは誰でも知るしてはいけない事。それを外さなければ良い。
    シンプルに出来てる世の中を複雑にせず、シンプルに考え、シンプルに生きたいですよね☺️
    人に優しく、動物に優しく、楽しく有りたい。
    不快にさせる言葉は避けたい。人を幸せにする事が生まれて来た目的、その為には自分が幸せになる事。幸せは人により違いますが、空気を吸える、ご飯が食べれる。
    ソウルメイトが居る。寝られる場所が有る。自分を理解してくれる人が居る。それだけで幸せですよね。
    自分の本当にやりたい事、好きな事が出来る喜びが幸せかも知れませんね。私はこの事を守る事が武道の本質かと思ってますね。久しぶりに真面目なコメントしました(笑)

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