「人を裁いてはならない」ー 聖書から学ぶ処世術 その1
どーも、景嗣です。
約3か月ぶりの投稿になる。
いままで更新をサボってきてしまって申し訳ない。
今回もいつものように、とりとめもない話をダラダラしていこうかと思う。
「ストレス社会」と評される現代、俗世の人々は社会を生きる中で多種多様なストレスを抱えながら日々過ごしているかと思う。
思うに、そのストレスの主たる原因とは、「人間関係」にある。
影響力ある人間の機嫌をうかがい、気を揉んだり、
あるいは、嫉妬やら恩着せがましさや攻撃的言動などを受けて疲弊する者も多いであろう。
そういった要因から、人々の中に「負の感情」が生まれ、それが伝播していく。
およそ、ストレス社会の簡易的な構造としてはこんな感じのイメージにはなるであろう。
科学の進歩発展がめざましいものの、こういったストレス社会の現代においては科学の追究のみならず、社会プレーヤーひとりひとりの精神修養と処世術の学習研究が必要になってくるように思う。
私個人の見解ではあるが、こういった精神修養・処世術の研究には、仏教やキリスト教などの宗教学や、哲学といった、人文学の考え方がおおいに参考になるように思う。
人間の悩みというのは、案外、古今東西変わらないものである。
SNSどころか、自動車や洗濯機が普及していない時代でさえ、当時の人々は現代人と同じような悩みを抱えて生きている。
人文学の論文や経典を読むと、そういうことが肌に染みてわかるし、当時の人々は「それに対する解決法を一様に分析解答しているのがわかる」。
つまり、ストレスに咽ぶ現代人は、そういった人文学の資料に触れて思考実験することによって、何かしらの解決の示唆が得られる可能性があるのだ。
本稿においては、その一例として、キリスト教よろしく「聖書」の一節から学び得るものについて、ダラダラと話ができたらと思っている。
いつも通りのことではあるが、私個人の私見に過ぎないので、
( ´_ゝ`)フーンくらいの心づもりでテキトーに読み流していってもらえたら幸いである。
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新約聖書マタイによる福音書6章7節
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、「あなたの目からおが屑をとらせてください」と、どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。
それを足で踏みにじり、向き直って、あなたがたに噛みついてくるだろう。
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これは、新約聖書に記された一節である。
このように、聖書などの宗教の経典というのは、わかりにくい比喩表現を用いて、人間学の真理を説くものが多い。
観察者の解釈と伝達の技量が問われる難解な資料である。
どうであろうか。
人間関係においてよくある悩みのひとつとしてこういうのはないだろうか。
「何であの人は、これが『正しい』のに、それをしないのか」
「『普通なら』こうして当たり前なのに、なぜしてくれないのか」
「あの人は、『普通とは違う』変な人で不快だ」
「正しいことをしない」
「普通であることをしてくれない」
こういう他人の「粗(あら)」が気になって、
不快な思いを抱き、マイナスな評価、つまり「裁き」を下すことが多々あるかと思う。
この「粗」というのが、新約聖書にいう「おが屑」であると思う。
それが気になるあなたは、その人の「おが屑」が気になって
取り去りたいといわんばかりに、ヤキモキするのである。
これについて、新約聖書ではその原因と一様の対処方法がそれとなく記されている。
他人の目にあるおが屑(粗)というのは、
「自分の目の中の丸太が作り出しているのである」
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ピンと来ないかな??
さて、そもそもだ・・・
「正しい」とは?? 「普通」とは??
そもそも、何の基準であろうか??
そう、自分が経験し思考した範疇での一様の基準に過ぎない。
それが、すべての文化・すべてのコミュニティ・森羅万象の変わることのない理であるはずがないのである。
悪く言ってしまえば、「相手を変だ」と評価してしまうのは、「自分の偏った色の付いた見方がそもそもの原因であるのだ」。
これが新約聖書にいう「丸太」であり、他人に見える「おが屑」の正体なのである。
これに気がつかないうちは、
「自分の偏った見方で相手を裁き」
「自分の偏った見方で相手を非難することになるのである」
相手からしてみれば、違った文化の普通を理不尽に押し付けられてる構図なのである。
相手にも相手なりの良い悪いの価値判断があり、それと相反する価値判断を強要された際に、相手も逆上する可能性もある・・・・
人間というのは、自分の経験思考の中で得たモノサシ・フィルタを通してでしか世界を見ることができないが、それを万物の理であり、皆が遵守することが当然であると錯覚して、他者に強要した際に争いが生まれるのである。
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人間は進化の過程で「共通のもの・共感」を重視してきた。
コミュニケーションをとるための共通言語や共通記号など、こういったものを開発することで、個体単体では出し得ない団体の知徳・英知の結集によって、文明を発展させてきた歴史がある。
人間というのは、「共通の印を求めたがる性質」がDNAレベルで埋め込まれている。
他者に対して、自分の普通を共感してほしいという本能が働くのは、ある意味当然の習性である。
しかしながら、「自分の普通」というのが、万物共通の理であるはずがないのである。
新約聖書の比喩を借りてくるならば
自分が大事にしている神聖(だと思い込んでいる)なものを、「価値のあるものだ」と他者に一方的に押し付けてみたとして、
その「価値がわからない」他者が悪気なく気に留めなったとしよう。
相手には悪気がなくても、あなたは気分を害するであろう。
ここで憤慨してみるとする。
当然、相手には相手の良い悪いの価値判断があり、それに触れた場合には大炎上である。
これこそが人間関係のもつれの一般的なパターンなのである。
これについて、新約聖書は一様の解決方法を提示している。
「自分の目の中の丸太を取り除け」
ここまでくれば、話は明快である。
「自分のモノサシ・フィルタで他者の価値判断に踏み入れないことだ」
自分の思い込みや偏見の枠を一旦取り去って、良い悪いの価値判断から離れて、相手と折り合いを図るのが賢明なのである。
きっと、これは頭ではわかっている人は多いとは思う。
しかしながら、人間というのは感情の生き物。
いざ、他者とのやりとりに入った際には、なかなか意識できていない人は多いように思う。
自分のモノサシで他者を裁くのはいけないってのは、きっと感覚的にわかるとは思うのだが・・・
自分の近くに、「自分勝手の良い悪いを押し付けて人を非難する人」を想像してほしい・・・・
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思いうかんだであろうか・・・・
何を隠そう・・・・
思い浮かんだ時点で、「その人はそういう人種であると裁かれているのである」
このように他者の良い悪いに恣意的に裁かれないためにも
理性を意識的に働かして、自分の中に巣食う「モノサシ・フィルタ」を少し外して、フラットな目線で他者と関わり合う姿勢を持つ余裕がほしいものである・・・・
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文字数がエエ具合になってきた・・・・
まだまだ話し足りぬ・・・
話に続きがあるのだ・・・
とりあえず、話の概要については、本稿「その1」の中におさめることにし、
次稿「その2」においては、実際に私が経験した実例とそれの対処について例示することで、本稿の概要への理解を深める記事を書きたいと思う。
次稿「その2」をお楽しみに待ってて頂きたい・・・・
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宗教学の経典というのは、間違った利用法や恣意的な解釈さえしなければ、人間の社会生活におおいに寄与し得るものである。
これを機に、少しでも興味を持っていただければ幸いである。
続く
景嗣
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