社会的弱者の必要性に関する考察 その1
どーも、景嗣です。
いやはや、本当に久しぶりの投稿になる。
最近、twitterに入り浸り過ぎてブログ記事更新が怠慢になってしまっていたことをこの場を借りて謝罪させて頂く。
すんまへんwwww
さてさて、景気づけといってはなんだが、
景嗣らしいトピックを書こうかと思う。
そうさなぁ・・・
こういうのはどうであろうか・・・
社会的な弱者に生きる価値はあるのであろうか??
おおよそ、メディアや一般社会通念の意見に耳を傾ければ、このような返しコトバが返ってくるであろう・・・
「弱者に対して、生きる価値を問うこと自体、禁忌(タブー)だ!! この人でなし!! サイコパスめ!!」
まぁ、感情論を前面に押し出すようにして、質問者の純粋なる疑問の声が流されてしまうであろう。
社会的な弱者を含めて人間社会が成り立つ。
あらゆる人間が共存する社会において、弱者のみを殊更非難し排除せしむる態度は、非人道的であり厳に非難されるべき思考態度であろう。
だが同時に、このような態度は、ある意味における思考放棄と言わざるを得ない。
政治家においては
社会的弱者を守るべき正当化根拠を欠いたまま、弱者保護の政策を推し進め、強者の財産に不当な侵害を及ぼすことになろう・・・
また、教育者においても
弱者を守るために強者が疲弊し、強者も弱者も共倒れる様を「正義か」と問われて口ごもるようでは、右手に持っている教鞭が何とも滑稽な玩具に見えてしまうであろう・・・・
おそらくは、整合的な論拠を欠いたままの、感情論のみが暴走する「弱者保護推進観念」に、強者は笑顔で受け容れるも、その実、飽き飽きした心持ちで従っているに違いない・・・
社会的な強者たちが、永久的に指を咥えて快く税金を払い続けるコンセンサスなぞ、どこにもあるはずがない・・・
「なぜ、殊更、弱者を保護する必要があるのか。場合によっては強者の財貨を侵してまで」
絶対的な解答があるはずもないのだが・・・
タブー視されている、このトピックについて、一定の解答を得ようとする思考態度には、政治的観点・教育的観点からも一定の意義があるように思われる。
・・・・
以下に、僕なりに、社会的な弱者を生かしておく必要性について考えていきたいと思う。
毎度、書くことではあるが、以下に記述することは、僕個人の意見であって、多分にバイアスのかかった意見・思考実験である。
何かしらの政治的な意図に基づいた、影響力のある意見を表明をしようなぞ、ということは一切考えてはいない。
純粋なる思考実験、要は、俗世離れした廃人の戯れに過ぎない・・・
( ´_ゝ`)フーンくらいの心づもりで軽い気持ちで読み流していってもらえたらありがたい。
久しぶりだし、文章のキレも悪い・・・
見苦しい文章になることを先に謝罪しておく・・・
・・・・・・
・・・・・・
時に、令和元年・・・
・・・・・・
世のまつりごとは、福祉国家に舵を切っていっている。
医療サービス・公共施設の充実化、社会インフラの整備など。
より手厚い社会保障の必要性の観点から、社会的な弱者に優し(そうな)制度設計がなされている昨今である。
その反面、
社会保障の充実のための財源の確保が非常に厳しいという現実もある・・・
(「政府は、愚民から吸い上げた、はした金を有効な使い道に使用することなく食いつぶしている」という、極めてクリティカルな意見もある。なるほど、この意見は傾聴に値すべき良い意見ではあるが、話の本筋から逸れる可能性があるので、敢えて触れない)
弱者を擁護しあまねく人間が障害なく楽しく暮らせる世の中を創るという理想と
社会保障を充実させた仕組み立てを整えた国家を運営をするという現実との間には
思うに、埋めるに埋めきれないギャップが存在しており、国家運営においては、かなり厳しい現実があることをまざまざと見せつけられるものである。
ここで、ふと純粋な疑問が生じるわけだ・・・
「そこまでして、なぜ弱者を生かすのか??」
「そうまでして、生かす価値があるのか??」
・・・・・
・・・・・
のう・・・
読者諸君、どうであろうか・・・・
上記のような考え方が、一秒たりとも頭によぎらない者が、この世に存在するであろうか??
存在するはずがない・・・
感情ある生き物であれば・・・
生来利己的な生き物であれば・・・
「弱者を排除しさえすれば、すべての問題が解決する・・」
このような思考が頭をよぎらないのは、ちゃんちゃらおかしいと言わざるを得ない。
・・・・・
・・・・・
それに・・・
生か「されている」弱者の立場からしても・・・
・・・・・
・・・・・
「強者が倒れてまで、生かして欲しいわけでもないのだ・・・」
僕は・・・
右目が見えない・・・・
将来的に左目も見えなくなる・・・・
どんなに生き続けていても、社会に貢献できる術は皆無に等しいのだ・・・
正直、僕なんか生きている価値すらない。
だが、こんな役立たずの僕を守るために・・・
僕の父は、社会の圧力に耐えかねて・・・
自らの手で、この世を去ってしまった・・・
社会にとって価値ある父がこの世を去り・・・
社会にとって無価値な僕がこの世に生き残ってしまった・・・
・・・・・
・・・・・
対外的には・・・
「父さんが俺を守ってくれた・・・父さんの分まで生きなきゃ!!」って強がってみせるさ・・・
だが・・・
・・・・・
そのようなキレイごとを言い続けるのは・・
本当に疲れる・・・
僕の心の根底には・・・
・・・・・・・・・・・
社会的に価値のない僕がこの世を去り・・・
社会にとって価値のある父さんが生き残るべきだったという思いがどうしても頭から離れないのだ・・・・
後悔と悲しみの念が、居座り続けているのだ・・・・
・・・・・
そうさ・・・
「社会的な弱者を生かす必要性を探求することは・・・」
「社会的に無価値な僕自身が生きていても良い・・」
「そう思える拠り所を探求することにほかならないのだ」・・・・
僕は個人的な思いからしても・・・
生きている限り、このトピックに目を背けることができないのだ・・・
・・・・・
・・・・・
さて、前置きがかなり長くなってしまった・・・
文字数が大変なことになってしまったので、本稿を「その1」として、次回「その2」において、考察の中身に移っていきたいと思う・・・
絶対的な答えのない、考察・・・
読者が満足のいくような、考察を書ける自信はないが・・・
出せるだけ、ネタを出していこう・・・
傷だらけになってまで・・・
健常者に冷たい視線と罵声を浴びせられ続けてまで・・・
生きる価値なぞ、どこにあるのか
無価値な俺を生かしたアンタの答えを聞かせてくれよ・・・
父さん・・・
続く
景嗣
景嗣のリアルを知らんから、
優しい言葉はあえてかけないよ。
自分の生き死には好きにすればいい。
でもこれだけは言える。
Twitterでは楽しく絡めてるぞ。