人間は「執着」とどのように付き合うべきか

どーも、景嗣です。

 

 

この時点では、実はまだタイトルすら決めていない。

まぁ、論文を書く時なんて、最終的なタイトルがカッチリ決定するのって、ほんまに終盤あたりだったりするから、これでもいいかもしれない。

 

せっかくの休日なのに、ボンヤリと思索にふけって、ボーッとしている (まぁ、晩は少林寺拳法の出稽古だ。いつまでも悶々と考え込み続けることはないだろう)。

 

・・・・・

・・・・・

毎日連絡を取り合っていた女性がいる。

彼女ではない。

その女性が僕に色んなモノゴトを相談してくるので、僕がある程度話を聞いてやって、それにアドバイスするような関係だ。

(年上の女性なのだが、破天荒な人生を送っている。法学やら哲学やら宗教論、武術観、人生論など、僕の持っている知識・知恵・考え方に興味があるらしい)

向こうからガンガン連絡は来るが、僕の方からは相手に配慮して連絡をしないように心がけている。

 

ここ4日ほど、彼女からあまり連絡が来なかった。

「彼女も忙しいんだなぁ。迷惑はかけじ」と思い、僕の方から連絡するのは控えた。

 

そしたら・・・・

 

「景嗣くん、あのね、好きな人ができたの」

「へぇ、よかったやん。おめでとさん」

「あじがとー (aiko語で「ありがとう」の意味らしい)」

 

「てっきり、お仕事が忙しいのかと思って、連絡を控えさせてもらってたよ。いやぁ、よかったねー」

「景嗣くん、それはアカンよ。損するよ」

 

「・・・・ん?? どゆこと??」

「時と場合によるけど、待ってる場合もあるの」

 

「この4日間、景嗣くんがどこかのタイミングで連絡をくれてさえいれば、今の気持ちになっていなかったかもしれないのにね」

「えっ?? よくわからんけど、そういうもんなん??」

 

「はぁ・・・そんなもんなの。景嗣くん、色んなこといっぱい知ってるのに、そこらへんの経験値はホント足りないね。これに気づく頃には景嗣くんは何歳になってるかしら」

 

・・・・・・

・・・・・・

読者ってこういう一連の流れを見てどう思うんかなぁ??

恥ずかしながら、僕景嗣としては

このやりとりを終えた時点では、彼女の言ってることがイマイチよくわからんかった。

ポイントは「雰囲気として、なぜ僕から連絡すべきであったのか」ということである。

 

落ち着いて、ボーッと考えてみて、自分の中で「ハッ」と気づくことがあったので、記事にしてみようと思った。

ここは、景嗣放浪記、俗世離れした人間の通い場である。読者の想定するよりもナナメ上らへんから話を展開させて頂くことにする。

 

 

少し前置きが長くなるが・・・・

持論があって。

 

 

「他者へコミットしていくことは、基本的には迷惑である」

 

 

例えば・・・・

僕が誰かを呼び止めて、「おはよう」と声を掛ける。

おそらく、一般論では、「挨拶は人間の基本、挨拶された側は気持ちいいし、自ら進んで挨拶しよう」

このように、理屈関係なく大人から教えられるであろう。

 

 

僕の場合は、少し違う。

僕が「おはよう」と誰かに声を掛けたとき、少なからずやその相手は僕に関心が向いてしまう。

 

これはマズイ。

というのも、僕が声を掛けることで、相手に対してあらゆる弊害が起こることが想定されるからだ。

 

相手が何か重要なことについて考え込んでいたなら、その集中力を半ば失わせてしまう可能性がある。

人間相手に愛想笑いするのはただでさえメンドクサイのに、挨拶してきた僕に対して、返答のアクションを強いられてしまう可能性がある。

何より、たかだが挨拶だけで、特に要件もないのにわざわざ立ち止まって時間を浪費させられることはおそらく不愉快の極みに違いない。

 

このように、「他人にコミットする」というのは、精神的な余裕やらペースやら時間など、相手の持ちうる有形無形のエネルギーを少なからず浪費させることに繋がる。

 

これはよくない。

 

だから、僕は他人からエネルギーを奪わないためにも、外に出る時は基本的には人間と目を合わせないし、自分から挨拶することもない。

 

ただ、「理屈はようわからんが、挨拶をするべきだ」という盲信を信じている俗世の人間は多い。

こっちの配慮も知らないで、挨拶をしない人間に対して無条件に評価を下げる人間はあまりにも多い。

だから、自己の利害関係が及ぶ人間については愛想よく挨拶するようにはしている。

 

あと、少林寺拳法関係で、一度道着を着れば、僕は「先生」である。どういう考え方であれ「先生」身分の人間が社会慣行に逆行し過ぎるマネをするのは良くない。門下生がそれを見てマネをする。

あっ、でも、少林寺拳法関係の人たちに悪い人はあまりいない。単純に僕の一方的な好意で挨拶しにいくことが多い。

誤解してほしくないが、同志たちだけに対しては上記のスタンスとは違った考え方を採らせて頂いている。みんな好きなので。

 

ともあれ、そういう風に自分の立ち位置を考えて、挨拶するようにはする。

 

・・・・・

まぁ、このように「他人にコミットする」のは、少なくとも相手のエネルギーを侵食する行為に他ならない。

至極迷惑行為だ。

 

僕はこの考え方のもと、他人にお手数をかける機会を限りなく減らすように努めている。

基本的に自分から他人を遊びに誘うことはしない。食事も誘わないし、電話も相手がしたいというときにしかしない。

僕だってホントは、他人を巻き込んで、哲学的な話やら議論やらをしたいのだが。相手の時間を浪費してしまう。

僕は、そのような自己の欲求を満たし、なおかつ他人に迷惑をかけないように、「ブログ記事」と言うカタチで自分の考えをベラベラと吐露しているのである。

見たい奴は見ればいいし、興味ない・見たくない奴は消え失せればいい。

僕の為にエネルギーを浪費するか否かを決定するイニシアティブを相手に握らせてやっている。

こうすることで、なるべく人間に対する迷惑を減らすことができる。

 

 

なぜこのような考え方に至ったか・・・・

 

簡単である。

人間たちが身をもって僕に教えてくれたのである。

(以下に述べるのは飽くまで少林寺拳法関係以外の人間である)

 

誰も僕の存在を認めようとはしない。

こちらが先に存在を認めてやっても、人間たちは僕のことをゴミクズ以下のように軽く扱ってくる。

認めてもらうといった目的でもないけども、相手が喜びそうなことをしても、須らく邪見に扱われる。

時には、僕の善意のみを享受し、仇で返してくる連中も多かった。

周囲から認めてもらっている人間を観察し、同じ行動をしたとしても、僕だけ存在を認めてもらえない。

 

少林寺拳法関係以外、出逢う人間須らくこんなんばっかりだったので、ド偉く人間のことが嫌いになってしまった。

 

まぁ人生長いわけで時には、人間どもの方から僕に干渉してくることもある。

「けっ、普段なら俺のことなんて気にも留めない人間たちが、俺に声を掛けるとは・・・ 何か見返りを求めているに違いない。俺から何かを奪う気でいる」

「そもそも、時間やら集中力やら、俺のエネルギーをムダに使わされている。メンドクサイ」

そういう風に感じた。

 

ここで持論が確立するわけだ。

自他ともに存在価値のない、社会的に無価値の存在であるならば

「他人と干渉しあっても、何の得にもならないし、むしろ双方とも損をする」

 

他人と干渉しようとするから「執着」が生まれるし、だからこそ邪見に扱われると期待を裏切られたような感覚に陥り、怒り苦しむ。

 

・・・・・・

そうか、仏教でもよく言うではないか

「執着」を捨てれば、苦しみから逃れられる、的な??

 

僕は若いながらにも、「他者への関心を減らし『執着』を消していくことこそ、人間関係における善である」という、独善的な見解に到達してしまった次第である。

 

 

さぁ、他人への「執着」を消して、他人を無視することで、自他ともに気楽な人生を歩んでいこうーーー。

・・・・・・

・・・・・・

と思っていた・・・・

 

 

前置きが長くなった・・・・

でも今回ばかりは、「景嗣くんに踏み込んで来て欲しかった」というのである・・・・

上記のような持論の中で生きてきた僕からすると、全くもって理解しかねる発想なのである。

 

「ん?? 僕は彼女に迷惑をかけないように最善の立ち回りをしたはずだが、何か残念そうだ・・・」

 

他人への「執着」を掻き消したはずなのだから、自他ともに苦しみから逃れられるはずでは??

 

・・・・・

・・・・・

 

そこで気づいた。

 

「自分より外界にあるあまねくモノへの『執着』を荒療治に減らすことによって、実は、自分の考え方など、すなわち自分の内実に関する事柄に『執着』している自分がいたことに気づく」

 

他人への興味・執着を掻き消すと、外界で起こる事象に関して一定の評価を加える場合に、非常に独善的な考え方に基づいて判断せざるを得なくなる。

それが「人間が大嫌いである」という潜在意識から始まるものであれば、当然一般社会の意見と交わるところが極めて少なくなるので、「独善的」の度合いが現状以上に色濃くなってしまう。

その結果、「他者への干渉は迷惑である」や「外界への『執着(関心??)』を減らすことで、一人一人気楽に生きていける」みたいな、ワンマンな固定観念に縛られる結果となる。

思うに、これは『自己への執着』が非常に強い状態である。

 

これが良いか悪いかは、また別次元の話になるわけだが、

十中八九、今回の事例では、『自己の考え方に固着するあまり、相手のニーズに沿うことができなかったわけである』

 

実は上述で伏線を張っている・・・

僕だって、元々は「他人から認められたい」という欲求から始まってあれこれ考えるに至っているのだ。

そういう悲壮感の中、他人から優しく声を掛けてもらえるのは、本来ならばこの上なく喜ばしいことのはずなのに・・・・

そんなことさえ、見失っていたよ・・・・

 

嗚呼、己は修行不足であることに気づかされる・・・

 

 

彼のご尊顔が思い浮かぶ・・・・

「煩悩クリエイター 稲田ズイキ」 襲来 その2

「煩悩クリエイター 稲田ズイキ」 襲来 その3

嗚呼・・・

稲田ズイキ和尚よ・・・

 

「人間、生きているうちは、煩悩からは逃れられない」

 

彼のコトバの重さを再確認させて頂いた。

 

「執着」も「煩悩」の一種みたいなものなのだが、ある領域で「煩悩」を減殺すると同時に潜在的に別次元で『煩悩の種』が蒔かれ、溌溂と新芽が芽吹き、大樹となりて幹を益し、やがて『執着の果実』宿す。

 

僕のケースだと、『外界への執着』を減らす代わりに、知らず知らずのうちに『自己への執着』という果実を無意識に育てていたことになる。

 

「『執着』と向き合うこと」

これが如何に困難を伴う行動であるかを、ひょんなことから気づかされたよ。

 

あらゆる『執着』のカタチを想定して、多角的にモノゴトを見ていくこと。

「執着」とのうまい付き合い方である・・・・

 

現時点の己に、如何様な『執着』が纏わりついているのかが認識できた。

「これだけでも進歩である」と前向きに捉えようではないか・・・

 

・・・・

漸々修学よ・・・・

己が修行不足であることに気づけた瞬間からやり直せばイイ。

きっとまた間違う・・・

それでもイイか・・・

生涯修行である・・・・

死ぬまで・・・

ラクになるまで・・・

 

・・・・・・

・・・・・・

・・・・・・

 

うわああああああああああああああああああんんんん!!!!!!

 

もしかして俺って、『アリ』やったのぉ!!!???

 

だとしたら、損したああああああああwwwwwwww

 

こうして景嗣の中に、また新たな「執着」が生まれるのであるwwww

以上

景嗣

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