キミに遺したいモノが、ボクにはある

どーも、景嗣です。

 

 

みなさんお久しぶり。

 

 

イロイロとバタバタしてしまって、ブログ記事の更新が約1カ月ぶりとなってしまった。

申し訳ない。

 

まぁ、当ブログ記事のコンテンツには、社会的な需要を満たせるほど大層な事柄は書かれていないように思うので、僕のペースで好き勝手に更新させて頂いても差し支えないように思うが。

 

あと、久しぶりに文章を書く。文章を書く前から勘づいているので事前にお伝えするが、文章構成のキレがかなり悪くなっているような気がする。

非常に読みにくい文面になり得ることを先に謝罪しておく。

 

 

・・・・・・・

・・・・・・

 

そういえば、あと15日ほどで今年も終わりますなぁ。
 
歳を重ねると時の流れがヤケに早い。

 

 

今年に入って、4年ぶりに少林寺拳法の修行を再開した。4年前まで通っていた、大阪の中心地にある道場で再び修行を積むことになった。

週4で少林寺拳法の練習を行い、指導者として門下生育成に努め、大会にも参加し入賞させて頂いた。

(優勝はできなかった。いつものようにはいかなかった。やはり以前よりだいぶ歳をとってしまったらしい) 

 

 

さてさて、この道場では、毎年最後の稽古において「大掃除」と「ミーティング」を行うことになっている。

 

「大掃除」とは文字通り、大掃除である。毎週2日、練習場所を借りさせて頂いている会館をくまなく掃除するのである。

 

その後に「ミーティング」を行う。

「ミーティング」では、机を円状に並べて、お菓子やらジュースやらを頂きながら、門下生どうし談話するのである。

 

うーん、談話というか・・・・

指導者を含めて、各拳士が一人一人、今年の反省やら来年の抱負やらを語るのである。

各拳士が腹に持っている思いを言語で共有できる数少ない貴重な機会でもある。

僕はこの「ミーティング」の雰囲気が何となく好きだったのを覚えている。

 

 

今年はやるのであろうか??

もし、今年もやるのであれば・・・・

 

 

「指導者として、何をしゃべろうかなぁ・・・」

 

・・・と、ミーティングでしゃべるべき内容をボンヤリと考えてみたりするのである。

 

そこまで意気込んでいるわけでもないのだが、自分の思いを将来ある子どもたちに言い遺すことのできる貴重な機会でもあるのだ。

ひとりの大人として、最低限子どもたちのためになる内容をしゃべりたいではないか。だから少なくとも、出たとこ勝負なスピーチはしたくないなぁ、と思うわけである。

 

 

しゃべる内容を考えるうえで、4年前と変わらないのは、僕より格上の指導者たちが言いそうなことと被らないようにスピーチ内容を構成することである。

もう、上の先生方とは付き合いが長いので、例年何をしゃべりはるのかが読める。

「ヤル気のない子は怒ります」「今年は乱取をいっぱいやります」「少林寺をやる以上は、喧嘩に巻き込まれても自衛できるようにしてほしいし、イジメられている仲間がいたら自ら進んで助けに行く勇気を持って欲しい」

・・・まぁ、およそ上記のような内容のことをベラベラしゃべりはるだろう。これらと被らないような内容の話を展開したい。

 

 

で、4年前と大きく変わるのは・・・・

 

スピーチをする僕自体である・・・・

 

4年前の僕は、たぶん以下のような感じで話をしていたのではないか。

「昨年同様に、今年も金メダルを獲得することができました。来年も各大会で好成績を取れるように精進致します。あっ、あとは、こうして日々何事もなく少林寺拳法の修行ができること、日々何事もなく生活できますことに感謝し、その感謝の意を忘れずに来年も頑張っていきたいと思います」(イケメンボイスでwww)

上記のとおり、「深みのない、歯が浮くような」セリフを「ハキハキ」としゃべっていたように思う。

 

あれから4年・・・・

社会経験も積み、あらゆるモノを失い、実際に経た歳月以上に齢を重ねたような感覚である。

人間としての円熟味も多少ながら増しているように思う。

 

まぁ、来る「ミーティング」において実際にしゃべるかどうかは別にして、今の僕が「人生の後輩」に向けて純粋にしゃべりたいことを以下に何となしに書いてみることにしよう。

( ´_ゝ`)フーンくらいの心積りで見てやってほしい。

 

 

・・・・・・・・

 

イロイロあった・・・・

 

4年前、僕は右目網膜剥離に罹患する。何十回にわたる手術を経て・・・

結果、右目の視力は使い物にならないほどに低下してしまった。

文字が読めない、人の表情が判別できないのである。

さらには、緑内障も併発したため、何年後になるのか不明だが、僕の右目は完全に失明する運命にある。

 

実は、左目も網膜裂孔がいくつもあり、いずれ右目と同じような運命を辿るというのである。

 

つまりは、いずれ完全に失明する運命にある。

 

・・・・・・

 

実は、上記に書いたことは、僕が被った精神的苦痛の中では、わりと軽い部類なのである。

 

自分の身体が傷つくことくらい、安いもんである。

人間、どーせいつかは終焉を迎えるのだから・・・

 

 

 

忌まわしき記憶をここに呼び覚まし、白状する。

 

 

 

父親が僕の目の前で突然亡くなった。

「自らの手で」だった・・・

 

僕は父さんが大好きだった。

ずっと尊敬してた。

 

なのに・・・・

 

このような形で父を急に亡くしたことは、僕の心に大きな穴を空けていった。

 

「父さんを助けられなかった」

あれ以来、僕はずっと後悔の念に苛まれ続けている。

 

母は毎晩、僕の傍ですすり泣くようになった。

 

 

また、兄は・・・・

 

合法ではあるものの、反社会的なビジネスに手を染め始めた。

その者の人間関係を破壊し、残るのは借金と大量の不良在庫のみとなる、おぞましいビジネスである。

 

僕は戦慄し、さらに母はすすり泣くようになった。

 

彼とは半ば縁を切らせてもらった。

 

 

僕は咽び泣く母に激励のコトバを何度も何度も語り掛け、支え続けた。

僕だって、大声を張り上げて泣きたいのに・・・・

ずっと堪え続けた・・・・

 

この時点で、相当程度に僕の精神は擦り切れていた。

他人の前で「作り笑顔」をすることさえ、苦痛だった。

 

 

父が急に死んで、安定的な収入を失った。

「右目も使い物にならない。今のうちに手に職をつけた方がイイかもしれん・・・」

焦って、民間就職を試みるも、ブラック企業にはまる。

(僕は、何を血迷っていたのだろう・・・まともにモノゴトを考えられなかったのかなぁ・・・)

 

学のないアホ社員からイジメにあい、課長に仕事を押し付けられ逃げられ、部下に裏切られる。

 

出逢う人間どもは、僕に害悪を与える者ばかりであった。

 

毎晩酒を飲んだくれながら、電話越しに母のすすり泣く声が聞こえる・・・

 

何をしてても、四六時中苦しい・・・・

 

公私ともに安息の地を失った。

頭がおかしくなりそうだった。

何もかも投げ捨てた。

 

・・・・・

もう、色んな出来事が次々に重なって、僕の心はいよいよ「穴だらけ」になっていた。

 

生きる活力がほぼゼロに等しい状況になり、廃人寸前となっていた・・・・

 

・・・・・

生きた心地のしない4年間だった。

何とも惨めで、痛く、そしてツラい4年間・・・

 

積んできた学歴もドブに捨てる結果となった。

家族の大半を納得のいかぬ形で失った。

振り返ると、今の自分には何も残っていないことに気づく。見えるのは、おぞましい数の「亡骸」だけである。

 

いずれ「メクラ」になる。

希望も夢も、誇りも失くしてしまった。

振り返らず、前だけを見つめても、何も見えない。

 

生きるのがとんでもなく苦痛になってしまった。

 

ここまでくると、もはや息をするのもメンドクサイのである。

うまく息ができないから、だいたい溜息にしかならず、ぎこちない呼吸を何度も繰り返すハメになる。

 

「どれだけ楽しいことがあったとしても、どれも一瞬だけ。次の瞬間には『悲しみ』がすべてを覆い尽くしてしまう・・・・」

 

「今、終われたら、どれだけ楽になれるかなぁ」

毎日毎日、そのようなことをボンヤリ考える始末。

 

・・・・

前置きが長くなった・・・・

 

ここまでの情報だけだと、僕は完全に廃人と化していただろうに・・・・

 

ところが・・・・

僕の中では、少林寺拳法の指導者として、修行を再開したことは想像以上に大きなことだったように思うのだ。

 

単純に身体を動かすだけでも何となしに気は紛れる。

 

新しい門下生、出稽古先など。人の繋がりが増えて、新しい価値観に触れることができる。自分にとってはプラスの刺激になる。

 

「景嗣、右目に負担の無いようにゆっくり動きや」と最初に言われていたのが、「景嗣、前に出て、基本演練をやってくれい」「門下生にちょっと指導したってくれい」

次は、「景嗣、型だけでエエから、大会出て、久しぶりに金メダル、とってこいや」

最終的には、「景嗣、オマエ早く四段を取れい。ほんで本格的に指導者になれい」

 

僕に対して、目標というか課題というか、役割みたいなのを次々に与えてくれる。

 

「少林寺拳法の修行は、総じて楽しい。これをするためだけ、というわけではないけれども、苦しいけども、もう少しだけ人生を生きてみようかな・・・・」

 

廃人寸前の僕に、少林寺拳法は僅かながら、生きる活力を与えてくれているように思う。

これが無ければ、僕は人間離れした「廃人」のような生活に興じているに違いない。

 

 

これを受けて、最近思うことがあるのだ。

 

・・・・・・

「人生の中で、心の底から本気で取り組んだ事柄は、将来行き詰まった自分に、居場所や役割を与えてくれる」

 

・・・・・・

なんだか当たり前のような、ありふれた私見であるが、理屈云々を別にして、肌で体感したような教訓である。

 

自慢じゃないが、僕は器用だ。大抵のことは人並み以上にサラッとこなせてしまう。

だがそれが仇となって、飽き性という悪癖を持ってしまった。大抵のことは一通りさらっとこなせてしまえる分、すぐに飽きる。

悲しいかな飽き性という悪癖のせいで、大抵のモノゴトに関して、心の底から本気で取り組んだことがない。

 

学問も仕事も、その道のプロからすれば、僕なんて中途半端なボーヤに見えることだろう。

中途半端にやってきたモノゴトは、僕に居場所や役割を与えることはなかった (あ、「課長」という役割は頂いてたな、カタチ上www)。

 

少林寺拳法は僕の人生のパターンにおいて、例外である。

のべ6、7年もの歳月修行を重ねた。飽き性の僕からすると、これはとんでもなく長続きである。

僭越ながら、大阪府で優勝し、大阪代表選手に選ばれ、全国大会にも出場するほど、自己研鑽に勤しみ、修行にのめり込んだ。

少林寺拳法に心血を注いで、本気でいたことは紛れもない事実である。

このような自負があるからこそ、自信を持って少林寺拳法を自分の居場所にすることができるし、与えられる役割を履行し、自発的に目標を設定し、達成しようと思えるのであろう。

この流れこそが、己にもう一度だけ生きる活力を与えてくれるのだと思う。

 

「此の法は、済生利人の為に修行し、決して自己の名利の為になすことなし」

少林寺拳法で食ってはいけぬ。

だが、少林寺拳法が、居場所や役割、生きる活力を与えてくれるお陰で、「シンドイけども、もう少し生きてみようかな」と思わせてくれる。

 

これは、本気で取り組んだモノゴト、少林寺拳法からの贈り物のように思えてならない。

 

時折思うことがある。

 

「少林寺拳法に熱中するのを辞めて、空いた時間でもっと有意義なことをしておくべきだったのではないか」と。

 

それはきっと間違いではないし、たぶんもっと社会に必要とされる人材になっていたかもしれない。

 

だが、今の廃人寸前の僕を激励してくれる少林寺拳法のような存在に出逢えていたかどうかはわからないのである。

 

その場合、きっと・・・

人生に絶望し、

僕は父さんの後を追っていると思う・・・

断言できる・・・・

 

・・・・・・・

「人生の中で、心の底から本気で取り組んだ事柄は、将来行き詰まった自分に、居場所や役割を与えてくれる」

 

きっと、子どもたちは、僕の意図をしっかり読んでくれるかどうか定かではないが。

 

色んなことに挑戦して、自分が熱中できるものに、とにかく本気になってほしい。

 

少林寺拳法でなくともイイ。何でも構わないから、「これっ!!」と思うものに一心不乱に取り組んでみて欲しい。

 

「将来キミが人生に行き詰まったとき、本気で取り組んだモノゴトが何かしらのカタチでキミを助けてくれる」

 

それが仕事になれば、儲けモンである。

 

時に、「こんなことに熱中して、俺はとんでもなく時間をムダにした」と思うときもでてくるだろう。

確かに短期的にはムダな取り組みであったようにも見えるが、実は中長期的に見ると、それで得た技は必ず自分の血や骨、肉となって、己を助けてくれるのである。どういうカタチであれな。

 

人生、常に順風満帆などあり得ない。

僕みたいに、人生のドン底を味わい、「自分の手で生涯の幕を閉じよう」と真剣に考えてしまうことだってままあるだろう。

 

そういう時にこそ

過去の栄光にすがる、という目的とは別に

 

「俺は、これについて本気になった。これだけは疑いない」

 

そう思えるモノゴトが自分の中に存在するかどうかを今一度確認してみてほしい。

 

それはきっと

悲しみから立ち直ることのできるパワーを持っていなくとも

キミの行き詰まった人生に、歩く道筋を僅かながらにも作ってくれるはずだから・・・

 

・・・・・・

この道理に気づくことができたなら

昔以上に自己受容できるはずだし

周囲に、心の底から感謝の念を持てるはずである。

 

人間、きっとそこからまたスタートをきれるはずだから。

きっと何度でも・・・

 

 

「キミに遺したいモノが・・・ボクにはある・・・」

 

きっと本稿において記した内容は重すぎて、「ミーティング」では言わないかもしれない。

けれど、何かしらのカタチで、子どもたちに遺したい。

とりあえずは、景嗣放浪記において、コンテンツとして遺した。

 

来年の僕はどんなことを思索しているかな。

僕も相当に歳をとった。

この4年で、心身ともに20歳くらい老け込んだように思う。

冗談抜きで

あと何年生きられるかわからない・・・

 

どうしようもない廃人寸前の僕の

取るに足らぬ人生経験から得た、拙い教訓ではあるが・・・

 

この世から消える前に、前途有望の子どもたちに

遺していきたい・・・・

以上

景嗣

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