「他人に嫌われるのが怖い」という人に・・・

どーも景嗣です。

 

 

最近、よく連絡をとる女性がいる。

というか毎日連絡を取り合っていて、仲良くさせて頂いている。

 

その方に言われたことがあって。

 

 

「景嗣くんに嫌われたくない」

 

「どうしても他人の目を気にしてしまう」

 

 

まぁ、このようなニュアンスのことを言われたのである。

まぁ、人間なら誰しも抱きがちな感情であろう。

特に、忖度が得意な日本民族については、他者の心理を推し量る能力が高いと同時に、「どうせなら嫌われたくないなぁ・・・」と考える者が多いように思う。

 

このような思考パターンを、ある種の「美徳」と捉えることもできるが、たいていの場合、人間関係におけるストレスの主要因になることも事実である。

 

まぁ、きっかけが少しばかりひょんなことから始まっているが、「他人に嫌われたくない」と思い毎日ビクビク生きている人に、何かしら「肩の力を抜くことができる発想の転換法」みたいなものを提供できればエエかなぁ、と考えている。

 

以下に述べることは、あくまで僕の個人的な見解である。( ´_ゝ`)フーンくらいの心づもりで見てやってほしい。

 

 

いま、この時点で、言いたいことは2つ思いついている。

各々1個ずつ、ダラダラとしゃべって行こう。

 

 

まず、1個目について・・・・

(オチは最後に言う。とりあえず見流していってほしい)

 

突拍子もない話にはなるが、「嫌い」とはどういう状態を指すのかを改めて考えて頂きたい。

 

「好き」の反対概念であろうか。

 

否・・・・

 

「好き」の反対概念は「無関心」である。

 

「好き」は「相手に対してポジティブな心証を積極的に抱いている状態」であり、「嫌い」は「相手に対してネガティブな心証を積極的に抱いている状態」である。

 

「相手に対して何かしらの『関心』を抱いている」というレベルの話をすると、むしろ「嫌い」は「好き」と同義語である。

 

「愛憎」とはよくいったものだ。強い憎しみは、強い好意より生まれ出づるものである。

 

嫌いとは、ネガティブな心証を抱くことではあるものの、その前提として「相手に対する『関心』が必要」なのである。

 

さてさて、以下のコトバをきいて安心して頂きたい。

論理的にはなるが・・・・

「たいていの人間は、アナタに何らの『関心』を抱いておりません。故に嫌われることもそうそうありません」

 

僕はいっつも思うのだ。

「アナタに嫌われたくない」と言われるたびに・・・

 

「アナタは、僕がアナタに『何かしらの関心がある』と思い込んでいるらしい・・・・ やれやれ・・・」

 

要するに、「嫌われたくない」というのは、「自分は他者に対して何かしらの『関心』を引くような、目立つポイントがある」と豪語しているようなものなのである。

ハッキリ言わせてもらうと、「思い上がり」に他ならない。

自分の価値を高く見積もり過ぎている。

 

何なら、自分に置き換えてみるとイイのではないか??

アナタ自身、親族関係など以外の人間に関して、『自分に何かしらの関心を抱かせる者』はそうそういないことに気づくはずだ。

基本的に、「好き」でも「嫌い」でもない「どーでもイイ人」が大半のはずだ。

人間ひとりひとりの価値なんぞ、所詮その程度である。

 

これが現実である。世の中の大半の人は「アナタに関心がない」。だから、嫌われることもそうそうない。

 

少し寂しいような気もするが、「そこまで他人の目を気にする必要もないなぁ」と気楽な気分になれるような気もするだろう。

 

 

さてさて、2個目について・・・・

(これもオチは最後に言う。とりあえず読み進めてほしい)

 

結局は、アナタのことを「好き」か「嫌い」かをジャッジするのは、「アナタ」ではなく、「他者」なのである。

当たり前のことのように聞こえるが、この当たり前のことを心底自覚している者が何と少ないことか。

 

アナタがどれだけ必死に好かれようと努力したところで、他者が「嫌い」と思えば嫌われるし、その反面、何気ないところにいる他者に「好かれる」場合もあるだろう。

 

結局、「自分に対する評価は、他者のイニシアティブによって決するのである」。

自力では、もはやどうにもならんことなのである。

 

これを踏まえると・・・・

「嫌われたくない」というのは・・・

「自力では如何ともし難い自分に対する他者からの評価を、自分の力で変えさせてやりたい」と言っているようなものである。

 

思うに、これについても・・・・

「アンタは神様にでもなったつもりか?? とんだ思い上がりだな」となるわけである。

自分の力を過信していると言わざるを得ない。

 

さて、他者からの「好き」「嫌い」の評価は、自分の力では変えられない、ということを踏まえて、ひとつ提案したいのだ。

 

「嫌われたくない、嫌われたくない」とビクビクして、自分の本当の姿を隠すよりかは・・・・

 

「好き」「嫌い」については他人に決めさせてやって、自分はとにかく「ありのまま」を出して行動してみよう、と思ってみることだ。

 

 

考えてみてほしい。

ありのままの自分を隠してできる人間関係は無難かもしれないが、おもしろくないだろう。

だって、自分のことを「好き」と言ってくれる人であっても、「演技してる自分」を好きでいてくれているに過ぎない。素が出てしまえば、たちまち嫌われることにもなりかねない。

そんな「表面の自分しか知ってくれていない」薄っぺらい人間関係ができるのがオチである。

 

 

これに対して、自分に対する他者からの「好き」「嫌い」の評価は、自分では決められないと割り切り、ありのままの自分を貫く人間でいたとする。

確かに、素の自分は、「自分勝手」だったり「変態的」であったり、ひとクセふたクセあって、他者から嫌われやすいかもしれないけれども・・・・

「素の自分」を好きでいてくれる人に出逢えたとき、重厚な人間関係が形成できるのではないか・・・

 

「ありのままの自分」を受け容れぬ者は去ればいい・・・

「ありのままの自分」を真に受け容れてくれる者たちさえ、自分の近くに集めることができたら・・・・ これからの人生、きっと楽しくなるよ。

 

 

・・・・・

さてさて、2個の言いたいことが概ね言い終わったように思う。

きっと、景嗣放浪記の読者ならば、わかってくれているであろが・・・

 

僕は「他人に嫌われる」のが全く怖くない。

怖くない、というよりかは、眼中にない。

どーでもイイことなのだ。

 

 

ネット環境さえあれば誰でも閲覧することのできる、ブログ記事で、赤裸々な恥ずかしい体験談を描くことができるのも・・・

 

「自分自身が、そもそも他者の『関心』を引けるほどの価値もないことを自覚しているからである」

 

 

また「危険な思想」を爆裂させることができるのも・・・

 

「自分に対する他者からの『好き』『嫌い』の評価は、自分の力ではどうすることもできないことを自覚しているからだし、どーせなら、『ありのままの自分』のファンになってくれる人を集めようと思っているからである」

 

俗世の人間の眼には、僕がどういう存在に映っているのかはわからない (それ以前に、そんなことに興味がない) 。

けれども、このスタンスを貫いている僕としては・・・

気がラクだし、まぁまぁ楽しいのだ。

 

他人の目を気にするあまり、自分を隠して人生を楽しめないようでは、本末転倒である。

 

「嫌われても、まぁしょうがない」くらいの勢いで、『ありのままの自分』をさらけ出す方が楽しいではないか・・・

 

・・・・・・

・・・・・・

いかがだったか・・・・

発想の転換で、考え方ひとつで、目前に立ちはだかる大きな問題を「なぁんだ、ちっぽけなことだったなぁ」と思うことも可能なのである。

全ては考え方ひとつであるように思う。

 

もしかすると・・・

アナタの人生を不自由なものにさせている者の正体は・・・

アナタ自身の凝り固まった思考パターンであるかもしれない。

以上

景嗣

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