「ドS的ドM論」ー 心理戦の極地 その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は「『ドS的ドM論』ー 心理戦の極地」シリーズの「その2」に該当する。本稿を読み進めるにあたり、事前に「その1」を読んでおく必要がある。

以下に「その1」記事のリンクを貼っておく。各自確認されたい。

「ドS的ドM論」ー 心理戦の極地 その1

 

・・・・・

さてさて・・・・

 

前回記事では、「ドS的ドM論」の概念とその本質について、語らせて頂いた。

 

洗練された「戦略的なマゾヒスト」というのは・・・・

「マゾヒストにコミットしたい」という、サディストの欲求を逆手にとって、サディストを掌の上で踊らせるのである。

「サディストを上手く操作したい・・・・」

この瞬間、戦略的なマゾヒストというのは、その実、紛れもなく、「サディスト」の性質を色濃く帯びるのである・・・

 

「マゾヒストを極めし者は、パラドクス的ではあるが、サディストに辿り着くのである」

こういうニュアンスの文章を書かせて頂いた。

 

ポイントは、「自分が能動的に何かしらの行為をするのではなくて、さり気ない仕草をちらつかせて相手方に積極的な行為を促し、自らの快楽を最大化しようとするところ」であろう。

 

サディストが攻めているようで、その実マゾヒストの術中にマンマとハマり、その手の中でピエロの如く踊らされるわけだ・・・

マゾヒストのその様は、妖艶でありかつ非常に狡猾である。

 

「僕はなぜ、『ドM』として振る舞うことに愉悦を感ずるのか・・・」

 

僕にとっては少し恥ずかしい話になる・・・

もう、だいぶ歳を喰って、おとなしくなった今だからこそ、吐露できることがある・・・

 

僕はわりと人々の注目を浴びるのが好きな方らしい・・・

これだけでは、十分に僕の複雑な心を表現しきれない・・・

 

どんな形であれ、「認められたい、認識されたい」のだ・・・

生まれてこの方、愛されたという感覚が無かったからであろう。

他者からの愛に飢えていた・・・

そういう野心のような欲求が静かに鈍く燃えている・・・

 

「とにかく誰よりも抜きん出て、愛されたかった」・・・

 

そこで身に付けた行動原理は・・・

「周りと少し違った思考を行い、行動をすることである」

 

目立つことであれば、良いことも悪いことも進んで取り組んだ (悪さをすることの方が断然多かったwwww)。

 

目の前に、右と左の分岐点があったとして・・・

皆が概ね「右に進む」という選択肢を採るならば・・・

僕は必ず、「左に進む」という選択肢を採った。

まぁ、「少数派のイバラの道」ばかりを通ってきた。

自分の長期的な損得なんて長考することなく・・・

 

誰かの後ろにコソコソ隠れることなぞしない。

むしろ矢面に立つのをウェルカムと言わんばかりに、多種多様な喧嘩もした。

 

このような稀有な行動を採り、悪目立ちする人種がブラブラと俗世を歩けば、当然、僕に突っ掛かってくる者も増えてくる。

僕からすればコイツらは、使い勝手のイイ道具だった。

「コイツらとまた一悶着問題を起こす度に、良きも悪きも誰かに注目してもらえる」

やがて、コイツらをうまく操作することで、己のマゾヒズムを最大化し快楽を得ることがクセになってしまった。

 

「注目されたい」というマゾヒズムを狂おしいほど求めたがため、サディストの行動意欲を自分なりに操作してきた次第である。

 

僕はもはや、「戦略的マゾヒスト」

否、サディストであった。

 

ただ・・・

このような野心に基づく卑しい自己顕示行動をしても・・・

一向に満たされない・・・

限りなく徒労である・・・

こういう生き方に疲れが出てきたのう・・・

 

齢を重ねて丸くなった今だからこそ、当時の僕を上記のように客観視できている次第である・・・・

 

 

・・・・

さてさて・・・

この「ドS的ドM論」の話の展開から、なんとなく面白い学びを得られるように思う。

「マゾヒスト」「サディスト」

意味を異にする正概念と反対概念が観念された場合、通常の感覚では両者は金輪際交わることはない、と思われる。

だが、本稿の分析に基づくと、「マゾヒスト」もその嗜好の程度を洗練すればするほど、「サディスト」としての性質を帯びてくるという現象が起こり得る。

 

世の中には、様々な正概念と反対概念が観念される。

「正義」と「悪」

「神」と「悪魔」

「剛」と「柔」

「陰」と「陽」

「幸」と「不幸」

挙げ始めたら、枚挙に暇がない。

 

正概念である「正義」とは、そもそも何であるか・・・

その反対概念である「悪」とは、そもそも何であるか・・・

 

読者諸君、自分の脳ミソの糖分が枯渇する寸前まで、両概念の意味するところについて、深く考え込み、吟味して頂きたい。

一旦糖分が枯渇して、十分に糖分補給をし終えた状態でさらに、その糖分を絞り出して・・・

それを何度も繰り返して、ただただ、多角的に思考を繰り返して頂きたい。

 

「正義」と「悪」、その両者の概念に明確な境目がなくなる瞬間が何度も出てくるはずだ・・・・

 

そもそも、愚鈍な人間が「正義」という概念を (主観的に) 創った瞬間に、「正義に非ざる領域」が観念され、そこにたまたま「悪」という概念を (主観的に) 充当したに過ぎない。

そもそも万人の共通理解となり得る、両概念の境目なぞ、観念されるはずがなかろうて・・・・

 

さらに、思考を繰り返すと・・・・

「正義」も「悪」も、究極的には「全く同一の存在」であるとの帰結に辿り着く。

「剛」と「柔」も、「全く同一の存在」である。

この視座こそ、あまねくモノゴトの真理に近しいように思う。

 

両概念の明確な線引きを求め執着することは、もはや無意味に近いと悟ってくる。

ゆえに、一切の概念を唱えない、「沈黙」こそが、モノゴトの真理に最も近しいとも言える・・・・

 

そういえば、上記のような趣旨の文章を以前記事にしたなぁ・・

モノゴトの両極性について

上記記事も是非参照されたい・・・哲学の極地である。

 

 

己の中に眠るマゾヒズムが洗練され、マゾヒズムの精度がもはや「戦略的マゾヒズム」と評されるまでに研ぎ澄まされたときに、当該マゾヒズムの性質は、ある種その反対概念たるサディズムと究極的には同一の性質として見て取ることが可能となる。

 

「人間が観念した正概念と反対概念をつぶさに精査したとき、究極的に同一概念である可能性がある」

 

僕は、思考と経験則によって、このような考え方に至った次第である・・・・

 

・・・・・

・・・・・

「ドM」か「ドS」か・・・・

「良」か「悪」か・・・

 

そもそも、上記のような稚拙な二分論を行う思考パターンをしてしまうから、どちらか一方の概念に囚われて苦しみが生まれるのだ・・・・

「良」も「悪」も同じ・・・・

執着を限りなく無くし、思考に柔軟性を持たせていくと、人間はより豊かに生きていけるかもしれない・・・・

 

 

嗚呼、眠い・・・

「マゾヒスト?? サディスト?? んなもん知らん!! どーでもイイ!! 眠い!! 俺は寝る!!!」

これはこれで、ある種真理に近しい解答かもしれぬwwww

以上

景嗣

 

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