お金の不思議について考えてみる その3
どーも、景嗣です。
本稿は、「お金の不思議について考えてみる」シリーズの「その3」に該当する。
本稿を読み進めるにあたり、前掲「その1」「その2」を事前に読んでおく必要があろう。
以下にリンクを貼っておく。各自確認されたい。
さてさて・・・・
お金というのは、2種類存在するらしい。
『生きたお金』と『無価値なお金』である。
双方とも、自己の懐から手離しゆく金銭である。
両者が大きく違うのは、前者はその主に「手離した金銭以上の利潤」をもたらし得るが、後者は「手離されたっきり」主の元へは何らの利潤も還元しない金銭のことを指す。
問題は、お金の『生きた』『無価値になった』がどのような基準でクラシファイングされるかである。
思うに、この問いに対する絶対的な解答は存在しないだろう。己自身、先人たちが感じ取ってきた経験値を頼りに、一応の個人的な見解を各々が示していくほかなかろうて。
とりあえず、景嗣放浪記においてはこのような一応の見解を述べさせて頂いている。
お金を生かす、すなわち手離したお金以上の利潤を獲得するシステムを構築することに成功している人間たちは共通して・・・
「お金自体に魂が宿っていることを信じ、そのお金の心の機微を敏感に察知している」
「そして、そのお金自体が誰かに感謝されることで笑顔になれる方法を知り実践している」
おおよそ、このような推察を前回記事でさせて頂いた次第である。
ふーむ・・なるほど・・
この考え方だと何となく説明が付けやすいかもしれぬ・・
投資家Aとベンチャー企業の社長Bがいたとする。
Bは先見性のある事業を思い付いた。おそらく10年後、あらゆるモノがネットにつながり自動化される世の中において、当事業の需要は爆発的に高まるであろう。
ただ・・事業育成・運営資金が足りない。
Bは色んな投資家たちに声を掛けた。
だが、Bの事業が真に役に立つのは10年後の未来であって、短期的なスパンで事業利益を見込んだ場合、そこまでの魅力はまだ無いのであろう。
大多数の投資家たちは、Bへの投資を敬遠した。
事業育成・運営資金を得られず、たちまちBは頭を抱えた。
(今でこそクラウド・ファウンディングという方法がある。世界中に発信すれば、そこまで苦労はしないのかもしれない)
そこに・・・・
「へぇー、なんだかおもしろいじゃん。1000万円キミに投資するよ。ムリに返そうと思わなくていいから、とりあえずこのお金で頑張ってみなよ。10年後にキミの技術で面白い世界を見せてほしいな」
気前よく1000万円の札束をBに差し出したのはAである (カードで出すと味気ないwww ここはキャッシュだwww)。
「ありがとうございます・・・」
「誰からも施しを受けられない」という状況において、Aによるバックアップは、Bにとってこの上なくありがたいことだろう。
Bは、目に涙を溜めて、Aに何度もお礼申し上げ、その1000万円をとても大事そうに両腕で抱きしめた。
・・・この時・・・Bの胸の中で抱きしめられたお金は・・・
「満面の笑みを浮かべていたに違いない」
10年後、Bの事業は大当たりした。
Bは、莫大な事業利益を生むことに成功した。
さて、読者がBだったらどうするか。
当事業を成功に導いてくれた投資家Aに対して恩返しできる地盤が整ったのだ。
「恩返ししたい。とびきり感謝の意を込めて」
Bは、Aに10年前の投資金額にこれでもかというくらい上乗せした金額を返還するだろうし、投資家Aの利益になる企画をいっぱいブラ下げて提供しにいくにちがいない。
Aは『思ってもいなかった、帰ってくるとも期待していなかった』Bの恩返しに心底喜んだ。
A「Bの御蔭で事業のバリエーションがさらに増えたな。『自分のお金で他者を幸せにするってのは気持ちがイイな』。さて、次は誰を幸せにしようかな・・・」
おそらく、これが『生きたお金』の理想のモデルなのだろう。
ところ変わって・・・
怠け者Cと、カジノDがいた。
(ここからは味気ない話になる。なるべくあっさりと物語を展開させる)
C「へへ、両親が亡くなってくれて助かったぜ。相続で1億円懐に入ってきたぜ。へへ、もっと金を増やして一生遊んで暮らしたい・・・とにかく仕事を忘れて遊ぼう」
CはカジノDに訪れ、とりあえず1000万円を使って、大当たりする確率が高いと噂されるゲームをすることにした。
Cは、カジノDのゲームマスターEに1000万円を手渡す。
Eはゲームを始める前に裏方に入り、社長Fと話をする。
E「社長、見てくださいよ。一回のゲームで1000万円でっせ。とんでもないアホがきましたぜ」
Eは、社長の目の前に1000万円をぶっきらぼうに置く。
F「アホやなコイツ。このゲームはな、最初のうちは当たりを良くして、頃合い見てぼったくる、エグイシステムをくんどるんや。んなことも想像できへんのか。とんだアホやで、コイツ」
F「それにな・・・」
F「一回で1000万円の支払いはスゴイわ、褒めたる。やけどな。うちには何千人のお客さんおるんやで?? 『彼らの支払いをカキ集めたら1000万円なんてスグ集まるんや。コイツの出した1000万円なんてな、所詮ハシタ金なんやわぁ』。特段ありがたくもあれへんわ。悪いけどな、『明日になったら、コイツの顔、忘れてるわ』」
Fは、その1000万円を拳で握り潰して、机にポーンと放り投げる
F「せっかく、カモがネギを背負ってきたんや。Eよ。存分にお客さん可愛がったりよwwww」
EとFは不気味な談笑を終えたあと、各自持ち場に戻る。
1000万円は・・・
Fに握り潰され、孤独に社長の机の上に佇む・・・
「きっと、その1000万円は泣いているにちがいない・・・」
Cは1000万円を懸けたゲームに勝ったのだろうか、負けたのだろうか・・・・
勝ったら、カジノの提示する倍率に従って一応はお金をもらえるだろうし、負けたら喰いっぱぐれる・・・
ここまで記事を読んでくれた読者ならわかると思うが・・・
実は、目先の勝ち負けなぞ、どーでもよくて・・・
十中八九、この1000万円は『無価値である』・・・・
感覚的に想像できるが、Cはゲームに勝ったとしても、それ以上の利益を獲得することは叶わぬであろう・・・
Aの投資、Cのギャンブル代金・・・・
両者とも出捐は1000万円。
同じ金額である。
だが・・・
その1000万円が支払われた相手方について・・・
「そのお金自体に対して、相手方が抱く感謝の重みが、ぜんぜん違う」
その1000万円が相手方にとって心底ありがたいものならば、そのお金を大事に使うだろう。『魂の籠ったお金として』。
当然、「その1000万円を提供してくれた方の顔をずっと覚えていることだろう」
その1000万円が相手方にとって代替可能なお金であれば、そのお金は『飽くまで物質としてのお金』という位置づけに終始するであろう。
おそらく、「1000万円を提供した者の顔なぞ覚えてもいないだろう」
・・・・
何となく、何かが見えてきそうだ。
この教訓をコトバにするのは難しいが・・・・
やはり大事なのは。
「浴槽に溜まった腐りかけの水を、どのように流していくのか」であろう。
結局、この流し方次第で、次に新鮮な水が入ってくるかどうかが決まってくるように思う。
お金が『生きる』か『無価値になるか』のメルクマールは・・・
「流した水が『相手方にとって、唯一無二の存在』になるほど感謝されるかどうか。『重みが伴うカタチで』感謝されるような相手方に流したかどうかである」
このようにして流れた水を受け取った相手方は当然・・・
『その水を流してくれた恩人の顔を後生忘れずに覚えていることであろう』
こういう、『感謝』の流れに乗っかることのできたお金は。
当然、「喜んでいるだろうね」・・・
結果論にはなるのだが・・・・
「適材適所。必要とされるところに与えればイイ」。なんだかこれだけでは説明の付かない部分があるように思えてならない。
取引の多様化した昨今。
定型的な取引として予め商流のルールを決め、不特定多数のお客様から金銭をやりとりすることが多い。
確かに短期的な目線で見れば、効率良く利潤を獲得することが可能な合理的な商流であろう。
確かに必要なところへ、モノとお金が流れる・・・
お互い、「欲しいモノが手に入ったこと」に対する感謝の気持ちは抱くだろう。
だが・・・
このような取引で・・・
お互いがお互いの顔を覚えることはないだろう・・・
「施しをしてくれた恩人にもっとお礼したい」
こんな気持ちが胸に宿るほど、
「感謝に『重み』が宿りにくいであろう」
もしかしたら・・・・
世の中の常識とされている、「不特定多数を相手取った定型取引」というのは・・・
金銭のやりとりについて、感謝に『重み』が宿りにくい・・・
『生きたお金』を生み出しにくいのかもしれない・・・・
そんなことをフト考えた次第である。
文字数がエライことになった。
とりあえずは、本稿を「その3」と位置づけて、次回「その4」を投稿することにしよう。
長くなって申し訳ないが、次回「その4」で本シリーズを終了しようと思う。
もう少しだけ僕に付き合ってほしい。
お金について・・・
無欲の僕からすると、こんなにもお金について考えたことは人生で初めてかもしれない・・・
続く
景嗣