少林寺拳法 牧野清先生との思い出ー「最も日本人らしくないサムライ」との再会 その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は、「少林寺拳法 牧野清先生との思い出ー「最も日本人らしくないサムライ」との再会」シリーズの「その2」に該当する。

本稿を読み進めるにあたり、事前に「その1」を読んでおくことを勧める。

以下、リンクを添付しておく。各自参照されたい。

少林寺拳法 牧野清先生との思い出ー「最も日本人らしくないサムライ」との再会 その1

「その1」の記事では、主に事実レベルの話を中心に展開させて頂いた。

牧野清先生の道場に4年ブリくらいに訪れて、稽古したこと。

牧野先生の85歳の誕生日のお祝いをしたこと。

別段、それ以上の情報を書き残す必要もないように思うが、せっかく久しぶりに「生けるレジェンド」牧野先生からお話を賜る機会を得たのだ。

今回の稽古の中で学び得たモノ・感じたコトを少しでも取り上げてみようと思う。

取り留めもない話に終始するが、暇な人は少しだけ僕に付き合って頂けると幸いである。

 

 

牧野先生「この前な、本部の人間に言われたんやけどな。『牧野先生の技術は痛すぎるんです。今の少林寺拳法は柔らかく優しくフンワリと捕るのが主流なんです。牧野先生の技術は、時代に逆行しています』とな。アホ抜かせ。開祖の技はどれも痛いんや。俺から言わしたら、今の拳法は武的要素が廃れて『盆踊り拳法』やないか。本部のスタンスがそんなんやからな、もう俺は表舞台に出たないんや。俺は隠居でも構わんから、開祖に伝えられた拳法を教えたいんや」

 

言わずもがな、僕は牧野先生の理念に大賛成である。

前述のとおり、牧野先生の技は「とにかく痛い」。

少林寺拳法の技はどこの道場に行っても基本的には「痛い」のだが、牧野先生の技は「痛い」のレベルが違う。腕や手首がモゲそうになるし、冷や汗も大量に出る。

あまりの痛さに声が出ない。

「とにかく痛い」

僕自身、これこそが少林寺拳法を実践で活かすうえで必要不可欠なエッセンスだと考える。

 

相手は己を襲いにかかるわけでしょ。フンワリ優しく投げたんでは、相手の狂気は止まらんのは明白であろう。

 

読者諸君も「喧嘩」をしたことがあるだろう??

命をとることが目的でなくとも、相手の狂気はそうそう止まるもんではない。

 

「痛すぎてこれ以上、襲う気力を喪失したわい」

「痛い、もう堪忍や。参った、参った」

 

「激痛を以て相手を制する」

相手を潰さない範囲で、己自身そして己の大切な人の命を守ることのできる理想的な方法ではないか。

牧野先生の「痛い技」には「不さつ活人」の本質が刻み込まれているように思う。

 

あと・・・

フンワリ投げる?? 優しく投げる??

思うに「馴れ合い拳法」は「滅び体」だ。

3年ぶりに少林寺拳法の大会を見に行った時に愕然とした。

もうホントに「盆踊り」である。

や、乱取り大会が原則禁止になって以来、少林寺拳法の武的要素が廃れているのは今になって始まった話ではないが・・・

 

打撃の位置、構え、技のキメ。どれをとっても派手さを重視するのみで、武的要素が昔以上になおざりにされていた。

や・・・まぁ、諸行無常と言いますか・・・モノゴトは常に移り変わるのであって、今の少林寺拳法の在り方もごく自然に「在るべき姿として」変化してきたわけで・・・

それを、「オカシイ」とか言う方がある種、自然の理に逆らう我欲の強い発言なのかもしれぬが・・・

「それにつけても、何だか寂しい・・・」

 

「馴れ合い拳法」の演武をまざまざと見せられて、どうしても寂しさを拭えなかったのう・・・

 

牧野先生いわく、本部の方針自体がそのような蒙昧らしい。

僕なんて、少林寺拳法の本部の運営方針に影響を与えられるほどの力なんてこれっぽっちもないわけで・・・

別にムリしてまで、他人を変えようとも思わないし。

 

そうさなぁ・・・

僕が少林寺拳法を楽しむ方法としては、表向きは「盆踊り拳法」を受け容れて、裏向きは「武的要素を推す伝統派」の道場に赴いて静かに修行していくことであろうか。

なにせ、西陣道院への出稽古は継続することになろう。

 

 

「景嗣、こんなことを書いて、牧野先生の評判が落ちたらどうするんだ!!」

そう言いたそうな、牧野先生のファンが居そうだが・・・

そういう人は思うに牧野先生と直に話したことのない「にわかファン」である。

 

ここでようやく、伏線として張っておいた本稿の題名「最も日本人らしくないサムライ」の部分が活きてくる。

 

牧野先生はね・・・・

「言いたいことは、ハッキリと面と向かって言う方である」

「たとえそれが、相手にとって、部分社会にとって角の立つ言動であったとしても」

「エエもんはエエ、アカンもんはアカン」

「自分が正しいと思ったことを貫き通す方である」

 

きっと、牧野先生なら、牧野先生にモノ申してきた無礼な人間に対して、面と向かって「アホ抜かせ!!」と言ったに違いない。

 

読者は覚えてるだろうか・・・

以前僕が書いた記事のエピソードを・・・

 

その昔、開祖が模範演武として門下生を投げ飛ばしまくっていたのを見て、「あんなにポンポン技がキマるもんかね」と疑問に思った牧野先生は・・・

開祖のところに行って無礼にも「今の模範演武は『申し合わせ』ですか??」と面と向かって喧嘩を売りにいったというのだから・・・

(開祖はニヤリと笑って、その後「痛い技」の手解きをこれでもかというくらいに牧野先生に仕込んだという話があるwwww)

 

 

そういう方なのよ。牧野先生は・・・

だから、問題になるのは、牧野先生のコトバの趣旨を僕がはき違えていないかどうかという点だけであると考える。

僕自身も、この考え方は「正しい」と思って景嗣放浪記において発信させて頂いている次第だ。

 

 

牧野先生のブレのなさが伺えるエピソード、今回もあったなぁ・・・

場面は・・・

牧野先生と外国人の相手と、そして両者をつなぐ通訳者、以上の3人が何かしらの対談を行っていたときのこと。

牧野先生と相手の外国人の意見に相違が出てきた。

牧野先生のことだ。無論、言いたいことを包み隠さず発言し、通訳の人に訳させようとする。

すると、その通訳者、発言の内容を聞きかねたようで・・・

 

通訳者「・・・牧野先生、私は色んな日本人の通訳を担当して参りました。大抵の日本人は『思いやりの精神』といいますか・・・『察してくれの精神』と言いますか・・・とにもかくにも、たとえ言いたいことがあっても、オブラートに包んだコトバのチョイスをするのです。しかし、アナタは日本人であるにも関わらず、包み隠さずよくもそんなに角の立つことを平気でおっしゃいますね・・・」

 

牧野先生「あのな・・・角立つかどうか知らんけどもな。ただ俺はこの人にどうしても言いたいことがあるんや。言いたいことを相手に理解してもろて言い分を突き通すにはな、ハッキリ言わないかん。日本人は言いたいことを言われへんタチやろう・・・ 外交の場面なったら見てられへんわ。やから、外国人に舐められてエエようにつけ込まれるんとちゃうか」

 

通訳者「Oh・・・ ここまで、言いたいことを突き通そうとされると逆に気持ちがイイですね・・・ アナタは私が知る日本人の中で最も日本人らしくないサムライですよ!!」

 

 

・・・・・・(回想場面終了)

牧野先生「景嗣くんな、どんな場面であってもな、言いたいことは言ったほうがエエんや。言わないかん。今の日本人にはそれが欠けとる。やからアカンのや」

 

牧野先生・・・スゲェよ、アンタ・・・

何がスゴイって・・・

 

僕自身も、牧野先生と同じタイプの人間なんだけど・・・

不思議なもんで、上記発言は聞こえはいいけど、いざ実践してみると、「社会性がない」だとか「使いにくい」だとか評価されて、知らぬ間に社会の隅っこに追いやられてしまう。

いわゆる「頑固ジジイ」と煙たがられるだけなのだ。

煙たがられた挙句、気が付けば自分の足場がなくなるわけさ・・・

 

 

ただ、牧野先生はタダの「頑固ジジイ」では留まらない。

「圧倒的なカリスマ性がある」

どれだけ、角のたつようなコトを言って、一部の社会から煙たがられたとしても、決して孤立することない。彼の周りには、支えになる信頼のおける人たちが常にいるのである。

 

その「カリスマ性」は侮れない。

少林寺拳法を外国に普及させていくためにも、知りもしない外国の地に単身出向いたときのこと・・・

 

腕力自慢の巨体の外国人をいくつも集めて少林寺拳法の講座を行い、ガンガン技をキメていくわけだ。

最初、牧野先生のことを不審に思っていた外国人も、牧野先生の神業に魅せられるらしい。

 

「Ouch !!!!!! It’s so painful !!!  Amazing!!!!」

「Sensei !!!!!    Sensei !!!!!    Senseーーーi !!!!!」

 

や、実際に僕はその光景を見たわけでもないんやけどもwwww

アウチだのなんだの断末魔が響く次には、牧野先生になついてくる外国人がこぞってでてきたらしいwww

緊迫とした雰囲気で始まった講座は、終盤ころには、「Sensei コール」で盛り上がったらしいwwww

牧野先生は、少林寺拳法の第一人者としてその国の人々に認められたという実績をいとも簡単に作ってしまったのだ。

 

きっと・・・

牧野先生が言いたいことを言えるのは

「それ相応の実力があるからなのだ」

 

喧嘩野郎のならず者の景嗣も同じ手口でマンマと手なずけられてしまったわけだwwww

そんな気がしてならないのだ。

 

 

そういう意味では・・・

牧野先生、彼そのものが「力愛不二」の教えの教材になり得るのではないか・・・

 

そんなことまで僕に思わせるほど、牧野先生のカリスマ性というか輝きには、何物にも代えがたい魅力が内包されている。

 

・・・・

「言いたいことが言えない。これを言うことで嫌われたらどうしよう。自分の足場が無くなったらどうしよう」

カリスマ性無き日本人はそのようなことに毎日怯えて日々の社会生活を営んでいることであろう。

これはこれで正解だ。ある種うまくリスクヘッジを行った合理的な選択かもしれない。

 

ただ・・・

果たして、それは「自分の人生を生きている」と言えるのだろうか。

他人の顔ばかり見て怯え暮らす毎日。そのような毎日を心底楽しいと評価できるだろうか。

 

牧野先生はもしかしたら、以下のようなことを「非力な」僕に諭したのかもしれない。

「力の有る無しは関係ないんや。要は自分のエエ・アカンをしっかり心の中で堅持しておくんや。それによって一時は損するかもしれへん。やけどな、キミの信念に理解を示す者もこの広い世の中には少なくとも何人かおるもんなんや。人生『行』や。そんなもんや。やから自分の信念を曲げてまで腐るなよ」

上記のコトバはあくまで僕のつくったフィクションだ。牧野先生はこんなことは言っていない。

ただ、そういう趣旨を言いたかったように思えてならなかった。

 

牧野先生の発するコトバはどれも重みがある。

今回、何気なく僕に語り掛けてきたコトバにもそれ相応の重みが感じられたのだ・・・・

有難し・・・・ 合掌・・・・

 

 

4年ブリの牧野先生との再会・・・・

やっぱり牧野先生はカッコ良かった・・・・

「叶うなら、こんなカッコ良いジイさんになりてぇ・・・・」

ホント、いつまでも僕の憧れの先生である。

 

右目の負担を考慮しながらにはなるが・・・

次の技術研究会も是非参加させて頂こうかと存じている。

 

アー、楽しみーーーー

以上

景嗣

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