ゴメン、今からわりとエエことを書くかもしれない、珍しくwww その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は、「ゴメン、今からわりとエエことを書くかもしれない、珍しくwww」シリーズの「その2」に該当する。

本稿を読み進めるにあたり、事前に「その2」を読んでおく必要がある。

下記リンクより「その1」記事を参照されたい。

ゴメン、今からわりとエエことを書くかもしれない、珍しくwww その1

各自確認されたい。

 

この時の僕は
気持ちのイイくらい
「自分の損得を一切考えず、困っている誰かを想って、助けようと一心不乱だったよ」

 

以前の記事にそう書いておいたね。

普段、母から聞かされる愚痴の内容から察するに、そのクレーマーは「とてつもなく意地の悪いジーさん、バーさん」だ、という印象を潜在的に抱いていた。

多分、普段の僕なら会いに行くのも億劫になるだろうし、何より接点を持たないように、関わらないように立ち振る舞っていただろう。

 

しかし、この日に限っては、「助けなきゃ」という気持ちが何よりも勝っていたらしい。

建物の外壁や看板が風で宙を舞い、建造物が倒壊し、活線がそこら中地に向かって垂れ下がっている最中、一心不乱にマンション住民のもとに駆け付けた。

 

まぁ、母のマンション、とりあえず外観を一瞥するに壁が剥がれたとか屋根を持っていかれたとか、そういう事態はこの時点では見受けられなかった。

 

口を「への字」に歪めたおじいさんおばあさんがいた。

まぁ、例のクレーマーであろう。

文句のひとつやふたつを今にも言いたげそうな雰囲気があったが、そんなのお構いなしだよ。

 

「この度は大変申し訳ありません、とにもかくにも雨漏りの状況をいったん見せて頂けますでしょうか??」

平身低頭陳謝申し上げつつ、食い気味で脚立片手に半ばこちらのイニシアティブで部屋に上がらせて頂いた。

 

まぁ、雨漏りとはいえ、天井から次から次へと水が落ちてくるような緊急性はなかったものの、天井や外壁に染みができており、タンスやエアコンの裏側の外フレームが少しばかり濡れていた。

素人の僕でも現状を把握するのにそう難しくない状況であるが、脚立にすら乗れないじいさんばあさんにとっては現状を伝えてもらうだけでも大部分の不安要素を取り除いてもらえた感覚だったのだろう。

先ほどの険しい表情はこの時点でだいぶ和らいでいた。

 

「エアコンの内部が濡れてるかもしれなくて、電源をつけるのがコワい」とも言われた。

これもエアコンのブラケットの構造上壁からの水分がエアコン内部には入らないことを伝えたり、実際にエアコンを分解して内部状況を観察したりして、とにもかくにも安心してもらえる要素をいくつか伝えさせてもらった。

あとは、エアコンの裏側の外フレームとタンスの濡れている部分を丁寧に拭き取って、ドライヤーを使って天井や外壁の部分を乾かす応急処置をさせて頂いた。

 

業者の動きもストップしてる状況だったこともあり、雨漏りの根本的な解決にはぜんぜんなってないけど、とにもかくにも住民の不安を少しでも解消できるようにイロイロ提案しながら対応させて頂いた。

 

とにかく、安心してほしかった。

 

すっかりおじいさんおばあさんの機嫌は良くなっていた。

「来てくれて助かったわぁ。風もビュウビュウ吹くなか、雨漏りが起きてどうなることやら不安やったんやわぁ。ありがとう。アンタ大きくなったわね。エエ青年になってからホンマ・・・」

(この住民、僕が幼少期のころよりお客さんらしい。僕のカワイイ時代を知っているのかwww)

 

どうやら、母から聞いてる話ほど悪い人間ではなさそうだ。

人の為した善意に対して正々堂々「ありがとう」の言える人間らしい。

業者とお客、そういう関係が長い間続くのだ。何かしらの拍子で気持ちがスレ違い、お互いの悪い部分が見過ごせないレベルにまで悪化したのか。

単に、お互いの信頼関係が少しばかり破綻しただけではないか。

母も住民も悪い人間ではないように思うし。

 

(その後、屋上にあるアンテナが真っ二つに折れているというので、屋上に上って撤去しにいった。風に吹かれてバランスを崩して一階まで落ちたらオダブツだったが、この日は危険なことをいくつも自ら進んでやったなwwww)

 

 

さてさて

僕自身、この一連の流れが出来上がるまで、あんまり深いことを考えず、あれこれ走り回ったわけやけども。

 

 

この日に言われた「ありがとう」が、とんでもなく気持ちよかった。

 

社会生活を営むうえで「ありがとう」というコトバを頂けることは稀なことではない。

当然、お金をいただく身分になれば、「ありがとう」というコトバを頂く機会は多くなる。

 

ただ

今までの「ありがとう」はどれも重みを感じられなかった。

や、「ありがとう」と言ってくれる人には大変申し訳ないが、受け取る側の僕としては、あんまり心動かされるものとして解釈できないものが大半だった。

どの「ありがとう」も社交辞令。それ以上でも以下でもない。

 

そういう経験則もあって、この日に頂けた「ありがとう」が珍しく僕の心を揺れ動かしたという事実に、何かしら己の教訓にするべきエッセンスがあるのではないかと感じた。

 

 

どういう解釈で教訓にするべきなのだろう・・・

そうさなぁ・・・

一口にまとめるのは難しいが・・・・

 

 

「善は急げ」という、コトバの解釈に新しい見解が生まれたような気がする。

 

これは、おおよそ「鉄は熱いうちにうて」と同義語であろう。

「モノゴトを動かす適正なタイミングというのは限られているのであって、その適正なタイミングが来ている時を見計らって迅速に手をうつことが肝要である」

こういう意味合いで解釈するのが一般的であろう。

 

鉄が熱いうちにうつときはそうかもしれない。「適切なタイミングを狙え」という趣旨に終始すると思う。

が、善行を急ぐのには、もうひとつ理由があるように思えてならない。

 

それは

「善行が自他ともに活きてくるには邪念があってはならない。邪念が入れば、その善行によって生じる『徳』も無意味になる。だから、あらゆる邪念が入り込む余地がないほどに、あれよこれよと頭で考えることなく、ただただ本能のまま迅速に『己が信じる正しさを信じて』行動すべきだ」

ということだと考える。

 

大事なのは「タイミング」もあるけど・・・

「善行にあまり思考的な意味を持たせるな」ということだと思うのね。

 

人生とは、大小・意識的無意識的関係なく、意思決定の連続である。

ディシジョンを行う際には、読者諸君はどんなことを考えるであろうか。

きっと、慎重に期すべき重要な案件ほど、「己の得になるか」あるいは「これをすることにより、しないよりかは社会全体の効用が高まると考える」など、あれよこれよと考えるだろう。

当たり前だよな。特に仕事をするなら、会社利益の確保、お客様満足度の保持みたいなことをじっくり考えて行動する必要があろう。

それで結果を残せたなら、そのディシジョンはさぞ掛け替えのないものとして評価されよう。

 

ただ・・・

経験則だけどさ・・・

 

そういうのに限ってさ。良きも悪きも最終的な結果が出てきた時点で自分が得る感情的な高揚感って、なんだか少ない・・・

 

「あれこれ考えて、このリターンか。ふざけるな」

頭に血が昇ってキレるパターンwww

 

「あれこれ考えて、この結果か。まぁ穏当だな」

結果は出たものの、想定の範囲内過ぎて飛び上がる程嬉しくもない。

 

ある行動について、あれこれ思考を始めた時点で、もうコトの顛末を無意識的に予測して同時に期待値を設定してしまうわけさ。

だから、あれこれ考えた行動に対して「ありがとう」と言われても

「まぁ、当然かな」って無意識的に感じてしまうのかもしれない。

や、嬉しいんだよww 「ありがとう」って言われたらさ。

だが、心底僕の心には刺さらんわけさ。

特に僕は、行動する前には、あれこれ損得を考えることが多いからさ。

 

「想定外に利益が出た。うっひょ―――」

こういう場合について、僕個人の感じ方だけども、行動にあらゆる思考を巡らせた時点で、人間の脳が冷静になってしまってる。要は興が覚めてるんだよ、思考した時点で。思うにこういうケースでドンドコ喜んだ経験が実は無い。

 

 

ただ今回の僕の行動に関しては・・・・

「客のクレームには自分の都合を捨ててでも迅速に対応しろ」という理念だけで、結構な危険を冒してまで、一般的には至極不合理かもしれない行動を無思慮に採った。

建造物の下敷きになったり、風に乗って飛んできた板金に頭をぶつけたり、活線に触れて感電したり。下手したら僕も母も重傷を負っていたかもしれない。

周りから見たら本当に「阿呆」だったかもしれない。

 

けれども、住民を安心させられたことや期待すらしていなかった「ありがとう」を頂けた。

僕にとって最終的な心の高揚感はかなり高いものであった。

 

思うに、これは僕の行動に対して、僕自身が無思慮で一心不乱であったからこそ、「一切の期待値が介在しなかったからこそ」、「善行」としての「徳」が高いものになったのではないかと勝手に踏んでいる。

モノゴトを常にプラスマイナス、掛け算割り算で考える僕にとって、とても印象的な経験をさせて頂いたように思う。

 

そうか・・・

僕は考え過ぎていたのか・・・

 

本当に久しぶりに心が躍ったよ・・・

 

 

・・・・

人間ってさ・・・・

こういう瞬間が必要な生き物なんじゃないかな・・・

「損得抜きに、ただただ自分の信じたことに一心不乱に打ち込んでみる。誰かのために」・・・・

たとえ、それが結果として悪くなっても・・・

(その時は反面教師にすればいいし、他人に迷惑を掛けたら誠心誠意謝ればいいんじゃないかな)

それによって、周りからどれだけ阿呆と言われても・・・

ただ、「ヤケクソ」とは違う。決定的に違うのは「信念の有る無し」だ。そこは押さえておいて頂きたい。

 

だってさ・・・

あらゆることに冷めて、合理的にしか動けなくなった人間ってさ・・・

「生きたしかばね、そのもの」だと思うから。

それこそ簡単に機械やAIに代替されかねない。

 

僕はホントに生きたしかばねだったかもしれない。

そんなことを考えさせられたよ。

 

 

あ、一番大事なことを言い忘れてたよ・・・・

 

きっと人間の幸せの根本は・・・

「誰かの役に立てること」

なんじゃないかな・・・・

 

現代人は、あれこれ思考する過程で、「誰かの役に立つこと」の、真の有難みと尊さを落としていってしまうのではないか・・・

今回の件でそんなことを思った次第だ・・・

 

 

何でもイイ・・・・

僕の残された時間や資産・・・

誰かのために惜しみなく費やしていってもいいかもしれない。

 

どれだけ不合理でも、阿呆と思われても・・・・

上手いこと利用されて吐き捨てられても・・・

致命傷になるくらい損をしたとしても・・・・

 

どうせ近いうちにあの世に行くかもしれないなら・・・

この世を去る前に・・・

少しでも人間らしいことをしていたい。

少しでも誰かの役に立っていたい。

 

バカ正直にそんなことを考えてしまったよ。

 

スマンね、文字数がエゲツナイことになってしまったが、最後まで読んでいただいてありがとう。

 

さて、この経験を受けて、僕は何をしようかな・・・

本稿で辿り着いた結論を心持にした場合、人生って思った以上に自由なのかもしれないな。

何事も心持次第だね。

以上

景嗣

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