『続』・洗脳ーマインドコントロール その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は、「『続』・洗脳ーマインドコントロール」シリーズの「その2」に該当する。

本稿を読み進めるにあたって、事前に「その1」を読んでおく必要がある。

以下に「その1」記事を添付しておく。各自確認されたい。

『続』・洗脳ーマインドコントロール その1

さて・・・・

「経済的に余裕の出来た高学歴は、その聡明さを以て、生産性なき負の思索に腐心する傾向にある」

あくまで僕の個人的な見解に過ぎないし絶対的な根拠もないわけだが、前回記事での結語において上記の内容を示した。

 

感覚的な話に終始して申し訳ないが、マクロであれミクロであれ、自分を取り巻く経済状況が貧しい時には、ただ目前の生活費を稼ぐことに注力するであろう。

「今晩のメシを確保するために今を働く。明日のメシは明日確保する。その繰り返しだ」

こういう考え方は一見して精神的に逼迫するようなイメージを持つかもしれないが、それ以外の余計な、無益な思考を張り巡らさなくて済むという利点がある。

 

自分を取り巻く経済状況が安定したとき、とりあえずは数年先の生活費をコミットされている状況では、「良きも悪きも」思考に余裕が出来る。

人間の欲は際限がない。こういう状況になると、人間は思考を巡らさずにはいられない。「思考欲」が急スピードで増幅していく。何かを思索し行動に移さなければ気が済まなくなってくる。

「経済的な安定感を得た人間は、その思考欲の捌け口をどこかに見出そうと躍起になる。あらゆるところに己の思考欲を満たすことのできるファクターを探し始めるのである」

 

不思議なもんで・・・

「真剣に取り組むことのできる仕事」と言うのは、人間にとって思ったよりも大事らしい。

余剰の思考エネルギーが「仕事」に充当されるとき、その思考力がいかんなく発揮され、イロイロな成果物をクリエイトするわけだ。

思考欲を満たしたくて仕方のない人間にとっても、これは都合がイイに違いない。

 

 

オウム真理教が設立された時期を調べると、高度経済成長の絶頂期よりも少し後という時系列になるらしい。

国全体の経済状況はどちらかというと安定期を脱してしまっていたらしい。

この時代背景からは色んなことが想像できると思う。

一概に結論づけることはできないけども、僕としては以下のような状況の国民が結構いたのではないかと想像してしまう。

 

高度経済成長期を経て、国内の経済基盤がある程度整い、各家計に少しばかり余裕ができた。

大学進学が一般的になったり、将来の進路が多様化してきたという状況もあって、自分の将来について「漠然と夢想する時間」が増えたような気がする。

 

この「漠然と夢想する時間」というのは、人によっては結構苦しい時間になる。

自分の将来の青写真を明確に描ける者にとっては、これほどまでに甘美な時はないが、皆が皆そういうわけではない。

自分の将来の青写真を描けない人間にとってみては、まぁまぁ苦しい時間だ。

特に何がしたいわけでもないが、わかりもしない将来について漠然と考えなくてはならなくて、思考が堂々巡りして、いたずらに不安を煽るだけという日が多くなる。

なまじ頭が良かったりすると、イヤに思考が冴え渡り精神が渦巻いてしまうものである。

 

そのような状況下で、高度経済成長の波に陰りが出てくるわけだ。これからは、先人が通ってきた道を何も考えずに素通りするだけでは通用しないことを暗黙裡に刷り込まれる。これからの社会と自分との位置関係を想像してしまい、潜在的に不安感を覚える者も多かったはずだ。

 

「堂々巡りする思考」に「漠然とした社会不安」がミックスされて、非常に不安定な精神状況がつくられる者が多かったんじゃないか・・・・

 

そう考えると、「明日の食料を確保するために今日を働く。その繰り返し」という人は、案外幸せなのかもしれない。

基本的には貧しいが、今を生き抜くのに必死であるあまり、わかりもしない将来についてあれよこれよと思考を張り巡らせる余裕もないため、上記のような精神的な摩耗も少ないんじゃないか。

(これも一概には言えない。前の職場はホントに絵に描いたような「余裕のない奴」が多かった。そういう奴らひとりひとりが結構ギスギスしていたっけか・・・)

 

 

時間と貯金を持て余し、漠然とした社会不安に恐れ慄き、思考が堂々巡りして苦しんでいる者にとって、オウムの理想論が変に胸に刺さったのではないだろうか。

たとえ、ハリボテの理想論であっても、自分に実体の無い焦燥感しか与えない現実から逃避する手段としては有用だったのではないか。

それゆえに、優秀な若者も次々とオウムに取り込まれたのではなかろうか。。。。

 

何度も言うが、上記内容は飽くまで僕個人の見解である。客観的に見れば的を射ていないところもあるかと思うが・・・

「資産に余裕のある若者に半悠久な時間を与えたとき、その思考欲が暴走し、あることないことイロイロと夢想し、結果的に精神的に不健康になるのではないか。それが優秀な若者であればあるほど、イヤに思考が冴え、経験値不足ゆえの漠然とした不安感に苛まれる」ような気がするのだ。

 

時間も資産も、学力も恵まれていればいるほど、それらのステータスゆえに精神的に脆弱になり、オウムのような過激カルト集団の教えに取り込まれ得るような気がする。

 

そう考えると、洗脳というのは「贅沢病」なのかもしれない。

成人病と似通ったところがある。先進国特有の病魔かもしれぬ。

 

なんだかそんな気がしてならない。

僕自身がそのような傾向にあるからだ。

資産も時間もムダに余裕がある。僭越ながら、学力もそこそこある。

ただ・・・・

「自分のやりたいことがない」

「何にもない」

これから自分がどういう方向性で生きていくのか

全く考えられない。

(正確には、「考えたくない」。考えて頑張ってみてもすぐに人間や病理に邪魔される。その度に「虚無のタトゥー」が身体に深く刻み込まれる。これが何と痛くそして虚しい気持ちにさせることか。まったく人生とは頑張るほどの価値もない)

 

現実に吐き気を催す毎日だ。

もし、僕の目の前に気持ちのイイ理想を語る集団が現れたら・・

僕はコロッとソイツらに取り込まれてしまうかもしれない。

 

ただ・・・

それも一興かもしれないと最近は思うのだ。

もう基本的に失うものなんて何も持ってないし

どうせ近いうちに死ぬなら、心躍ることに溺れて、自分がアホをやってることにも気づかないまま、ある日コロッと死ぬ方が健康的な最期になるかもしれない。

そんなことをついつい考えてしまう。

 

・・・・

さて、僕を含めて、本稿の言論に賛同する者よ。

 

「足るを知れ。悔い改めよ」

 

どれだけ精神的に不健康であれ、確かに資産・時間・学力には恵まれているのだ。

それだけでも大したものではないか。

己は当たり前のようにそれらを所有しているが、所有したくてもできない者もたくさんいるのだ。

それらを持つ自分のことを無条件に誇らしく思ってやれ。

 

そして

「それらを所有できているのは、全て己の力である」と思い上がらないことだ。

それらは、自分の身の回りにいる人たちの助力があってこそ、初めて体現されるものだ。

誇らしく思える自分がいるのは周りに助けてくれる人が居るからだ。

それを常に念頭において、心の底から感謝せよ。

有難み、幸せを感じよ。

 

それができたならば

自分がもらった幸せの分だけ、誰かを幸せにしてやれ。

見返りの有る無しはこの際関係ない。

とにかく、それを自分の行動パターンにするのだ。

「やりたいことがわからない自分」に「使命」を与えてやるのだ。

 

それが「真剣に取り組むことのできる仕事」にできたとき、人間は幸福感を得られるのではなかろうか。

このルーティンが確立される頃には、「思考欲」とか「漠然とした不安感」とか、そんなムダなこと考えている自分は既にいなくなっているはずだよ。

 

「贅沢病」治療のための処方箋である。

よければ受け取って頂きたい。

 

物質的に豊かになればなるほど、精神的には貧しくなるか・・・

何とも皮肉なもんだな。

心身共に健康的になれるような思考・行動パターンを身に付けるのが肝要だな。

ホント当たり前のことだが、オウム真理教の一件を端緒にもう一度洗脳についてグダグダと考えていく中で、再認識したよ。

日々の小さなことであっても、心に留めていきたいものである。

以上

景嗣

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