「勘にさわる人、心に留まる人」の正体 その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は「『勘にさわる人、心に留まる人』の正体」シリーズの「その2」に該当する。

本稿を読み進めるにあたり、事前に「その1」を読んでおく必要がある。

以下に「その1」のリンクを貼っておく。各自確認されたい。

「勘にさわる人、心に留まる人」の正体 その1

 

さて・・・・

「勘にさわる人、心に留まる人」の正体、それは「自分自身そのもの」なのである、という話を以前させて頂いた。

「勘にさわる人」については、「その1」において言及させて頂いた。

 

僕にとって「心に留まる人」とは・・・

「今自分が、不安で押しつぶされそうだったり、あるいは悲しい気持ちになっていることをあらゆる言動から読み取れる人間」である。

・・・いま思えば、これも自分自身に他ならない。

 

僕は何故このような人たちを見ると、放っては置けず、なるべく無条件で助けてあげたい、と思ってしまうのだろうか・・・

この性格のせいで、人生かなり損をしてきたというのに。

誰も僕の助けなんか求めていないのに

誰も僕のことなんて必要としてないのに

仮に助けたとて、利用されるだけ利用されてボロ雑巾のように吐き捨てられるだけだというのに

なぜこんなにも陳腐な感情が起こってしまうのか・・・

 

それはきっと

 

「僕自身がツラく、苦しく、悲しいんだ」

「僕自身が狂おしいほど救いを求めているからなんだ」

 

たとえ、

裏切られることがわかってても

罠にはめられることがわかってても

彼らに救いの手を差し伸べてしまうのは・・・

 

「彼が僕自身であると仮定した場合に、僕ならば『助けてほしい』と思うからであろう」

自分の心の声を頼りに、相手のニーズを勝手に解釈する結果、無意識的に行ってしまう行動原理なのだろう。

 

この現象について考えたときに「弱者を救って英雄気取りをしたいだけかもしれない」という線も考えたのだが、自分の中でイマイチしっくりこない。

やっぱり、「その弱者は、己の生き写しそのものである」という説の方がしっくりくる。感覚的に。

 

だとすると、何とも情けない話だ。

その者から聞こえる悲痛な叫び声が、己の慟哭の声だったとは。

決して癒されない、満たされない心、その虚しさをその者に投影していたとはな。

僕はつくづく情けない男であると思い知らされる。

 

生きるのがあまりにも苦しくて

「人助け」という自分の生を輝かすことのできるものを見つけては、助けた者に傷つけられて

「それはお前の弱さだ」と社会から執拗に糾弾されて

もっと生きるのが苦しくなる。

 

今のところ、この負の連鎖を終わらせる方法は一つしかないと考えている。

「早いところ死ぬことだ」

こんなくだらん人生に、己の心の虚しさを満たせることを、そもそも期待してはいけないのだ。

だから・・・

僕のことを慕ってくれる声はとても嬉しくもあり、そして僕の胸をキツく締め付けるのだ・・・

ゴメンね・・・

僕は人を不快にさせることしかできないみたいだ。

こんなことを独り黙々と思索する度に、ホントに自分のことがイヤになるよ・・・

 

 

さて、自分の心の琴線に触れる人種は、自分自身そのものに他ならないことを、自分を実例に挙げて取り上げさせてもらった。

読者はどうであるか。

読者も各人各様、「勘にさわる人、心に留まる人」が居るはずだ。それは、百人いれば百通りのパターンがあると思う。

本稿において述べさせてもらった私見は飽くまで僕個人の意見だ。すべてがすべて当てはまるわけではないものの、そういう人たちが「自分そのもの」であることが往々にしてあるはずだ。

 

色んな解釈・見方がある。

心の琴線に触れる人種が・・・・

「自分のいまの姿そのもの」

「よく言えば自分の理想を体現する者への憧れ、悪く言えば自分では満たせないものを体現している者への妬み」

「厳に戒めたい自分の情けない一面」

色んな見方があると思う。

 

ただ、やっぱり共通するのは・・・

「心の琴線に触れてくる相手の中に『自分の性質』を見出し、その『自分の性質』に着目して相手を評価している点」であろう。

 

すべては、「自分の中にある性質」が引き起こしている事象である。

 

さて、ここまでの考察を終えて、僕らには何ができるだろうか。

人間は感情と共存しなければ生きてはいけない。

感情がある限り、自分の弱さに対する評価をせずにはいられない。ゆえにこの事象を完全に無くすことはできない。

もし、この事象を無くすことができるものがいたなら、きっとそれは「人間の形をした物」である。肉体はあれど完全に心を捨て去った人形に過ぎなくなる。

人の道を外さなければ、そんなことはできない。

 

じゃあどうすればいい。

そういう人種との出逢いを通じて

「妬みや嫉み、怒りの感情に支配されることなく、『自分の成長度を推し量れるくらいの余裕』を持つことだ」

 

こういうことはないだろうか。

その昔、そういう人種を見ていると胸元が焼けるくらい熱くなってムカついていたのが

今となっては、何とも感じなくなっているということが。

 

きっとそれは、「自分の弱さと向き合い、認め、そして赦した結果、その弱さが潜在的にも気にならなくなったのだろう」

この現象は自分の心がまたひとつ成長したことを表すように思う。

 

だとすると

「勘にさわる人、心に留まる人」というのは

「自分の心の成長度合いを推し量るメルクマール」としての機能を有するという見方が可能である。

そういう意味では、そのような人種への出逢いには感謝しなくてはならない。自分の心の琴線に触れてくる人間の中にこそ、自己成長のための重要なカギが隠されているのだから。

 

確かに、そういう人種に出逢ったときには、心に波風がたち落ち着いてはいられなくなる。

怒りや嫉みといった負の感情に支配されることもしばしばある。

それを踏まえた上で、一歩引いて冷静に考えてみることだ。

 

「あぁ、コイツが今の僕の姿なのか・・・」と

 

こういう考え方ができる余裕ができれば、人生をもっと豊かに生きていけるのではないだろうか。

 

忘れないでいただきたい。

この世界に映るモノの全ては・・・・

「自分の心のフィルターを通じて広がっている」

僕が「善」と思っているものも、A君からすれば「悪」であるときもある。

同じものを観察しても、僕とA君とでは評価が違う。

それは各人のフィルターが違うことに起因する。

 

だとすると

「この世界は」

「自分自身の思考を投影したものに他ならない」

こう言っても過言ではないはずだ・・・

 

「この世界に難解な問いを見つけたなら」

「その問いを、己自身に問え」

「万人には理解されない、いや各人保有するフィルターの形が違うのだから理解されなくて当然」

「そこに答えらしきモノが眠っているはずだ・・・」

 

思うに、人生の醍醐味とは、それを問い続けることにある。

その答えを見つけるのに、人生は短いだろうか、はたまた長いだろうか。

その答えもまた、自分の中にあるに違いない。

 

・・・

今日もボンヤリと独りで思索した。

俗世の喧騒から離れられる唯一の時間

この時間がいつまでも続けばいいのにな・・・・

以上

景嗣

Follow me!

「勘にさわる人、心に留まる人」の正体 その2” に対して1件のコメントがあります。

  1. usatoday.com より:

    Thɑnks for һelpіng out, fantastic info. “Nobody can be exactly like me. Sometimes even I have trouble doing it.” by Tallulah Bankhead.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です