「最も賢い処世術は社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をすることである」

どーも、景嗣です。

 

今日、とある格言に出逢った。

 

「最も賢い処世術は社会的因習を軽蔑しながら、しかも社会的因習と矛盾せぬ生活をすることである」

-芥川龍之介 「侏儒の言葉」-

かの有名な芥川先生が残した格言である。

 

この「景嗣放浪記」では、あらゆる俗世の民が「常識」としてそれが善であることを盲信するのを批判的に評価させて頂いている。

社会的因習に従うこと自体が悪というわけではないと思う。因習として社会コミュニティが長年重んじてきたことであるため、少なくとも何らかの効用をもたらし得る場合が多いように思う。

ただ、「無思慮に・考えなしに、みんなやってるからオイラも」的な流れで従うのはあんまり良くないのではないか。

 

大事なのは、その社会的因習がもたらし得る効用やら、そういう不文律が敷かれる背景、それ自体の本質を自分なりに考える必要があるように思う。その社会的因習の本質を自分の中で昇華したうえで、自分達のプラスになる部分 (かなり広い意味で「自分達のプラス」という文言を使わせて頂いている) を見出すことが重要である。

そうすることで、社会的因習の総合的な「善悪」の評価を下すきっかけをつくることが可能になる。ひいては、既存の不文律のシステムカイゼンや、既存の不文律よりもヨリ合理的な新ルールを創作することも可能になろう。

 

芥川先生は「軽蔑しながら」とおっしゃっている。僕自身そこまでクリティカルな見方というか表現を使わなくてもイイのではないかとも思うが、十中八九、上記のようなスタンスで既存の社会的因習との距離感を保っておくことが肝要であるように思う。

(ん?? 何かこういう話はかつて過去のブログ記事にも書いたような・・・)

独自の発想ー「イチローの考え方を参考に」

(これやわ・・・ よかったら上記添付の記事を見てやってください)

 

 

芥川先生はこれだけでは終わらない。

「社会的因習を軽蔑した上で、それに矛盾しない生活をおくれ」と言うのである。

 

「矛盾しない」という文言はどの程度のものを指すのだろうか・・・

僕の場合、クリアできてるかな・・・・

僕は社会人で会社務めしている。そういう「形式的な意味では」矛盾しない。しかしながら、「景嗣放浪記」に記してあるように、その実、厭世的な世離れフィロソフィーを堅持している点、「実質的には」矛盾している (ような気がする) 。

まぁ、世の中の人にそんなにも迷惑をかけているわけでもなさそうだから、一応クリアしているということにしといてもらおうかなwww

 

それは、さておき。

「矛盾しない必要がある」理由として、おおよそ2点思い浮かぶ。

 

1点目は、「既存の社会的因習の本質を真に理解するため」である。

先ほど申し上げた、既存ルールのカイゼンやら新ルールの制定やらは、飽くまで既存ルールの本質を理解するのが前提である。それを真に理解するためには、何より「既存ルール自体を知る必要がある」。

既存ルール自体を知るには、まずその既存ルールに頭から飛び込んで、内外問わず体に既存ルールを浴びる必要がある。

そういう意味合いで、「矛盾しない必要がある」とおっしゃっているのではないだろうか・・・

 

2点目は・・・

社会人になればイヤでもわかることであるが・・・

「悪法も法」とはよく言ったものだ (この場合、僕から見て「悪」という評価が下されているに過ぎない。違う立場の人からしてみれば、良法である場合もある)

善悪問わずどんなルールも、一旦制定され、各コミュニティーにおける社会生活に根付いた場合、そのルールは「神聖さ」という衣を纏って、正当性をもっ (たフリをし) て 構成員を締め付けるのである。

 

締め付けられる構成員というのは・・・・

やっぱり生身の人間である。

善悪を正確に判断することができないまま、当該ルールに縛られる滑稽な者たちが何と多いことか。

(あるいは・・・悪とはわかっていても、自分の立場の脆弱さゆえに唇を噛んで黙認している者も居るだろう)

厄介なのが・・・

どれだけオカしなルールであっても、それに服する構成員による「アカンもんはアカン!!」という、半ばゴリ押しの感情論が多数を占める場合がある (まぁ、バリバリ忖度であるのだが) 。

これが意外にもなかなか強固だ。

そのルールの脆弱な部分を論理的に説明できる場合であっても立場を覆すのが難しい。

「当該社会的因習に従わないことが明白であることを露呈させてしまった者は、盲目的かつ無思慮な多数構成員によって抹殺される」

いわゆる、村八分だ。

(社会的抹殺は「ジワジワ」と来るか、「急転直下」で来るか、それらのパターンは両極端であることがほとんどである)

 

また、人間は、「発言者の論理よりも、発言者の肩書を重視する」。正確には、肩書の裏に隠されている権力に注目する。

たとえ同じ論理を携えたとしても、村の長が言うのと新参者が言うのとでは、村の構成員の反応は全く違う。

悲しいかな、評価するのは人間である。偏見・バイアスだらけの判断になるわけである。

結局は、特別な地位にも就いていない限り、しばらくは社会的因習に矛盾しない行動を採る以外の選択肢が見つからないわけだ。

 

既存ルールのカイゼンや新ルール制定に踏み出す前に、自分の立ち位置や既存ルールによって利益を享受する人間の権力の存在を知る必要がある。

これを弁えていなければ、どれほど有益な理論を携えようとも周囲の人間の手によって抹殺されるだけである。

要するに、「自分の思惑を実現させていくために、機を見計らう。行動を起こすに相応の肩書を得る。そういった意味での『矛盾しない必要がある』という見方もある」

 

やはり、この世の全ては

人・人・人である。

最終的に一番強いのは・・・

「社会的な共通認識を得た感情論である」

感情を一切取っ払った論理的思考はこれの前では無力である。

人間社会とは所詮その程度のもんである。

 

・・・

何か脱線してるようなしてないような・・・

とにもかくにも、論理的思考が主導しているようで、その実、論理で説明不能なゴリ押しの感情論が主導する人間社会をうまくやり過ごすためにも、「社会的因習と矛盾しない行動を採る」というのは重要であるように思う。

 

様々な名著を執筆することを通じて、痛烈な社会風刺や厭世主義的思考、人間の心の機微を表現された芥川先生による言論だ。

おそらくは、僕の取り上げた上記2点の中では、2点目の方が彼の真意に近いのではなかろうか。

そういう気がしてならない。

 

不思議なもんだ。

こういう類の悩みは、古今東西変わらぬもんなんだな。

 

人生に行き詰まりを感じたとき、自分の中でしっくり来ない現象に見舞われたとき、先人のコトバを紐解くのは想像以上の効果が期待できる。

小難しいことを言っているようだが、人生経験を積むたびに「なるほど」と考えさせられる。

 

学校の教師や教授やら、キレイごとを訓示的に有難迷惑にも示してくれる人間もいない。

人生の善悪もすべて自分で選択するステージに既に入っている。

 

社会に理不尽に打ちのめされては、先人の知恵を借りることにしよう。その繰り返しである。

実は、最も賢い処世術とは、まさに「これ」に他ならないのだ。

以上

景嗣

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