好きなことを続けていくには・・・
どーも、景嗣です。
生活スタイルが一新したこともあり、日々の生活サイクルを整えていったり、新しいことを覚えていったりと、イロイロと苦労している。
ここ2日間ほどブログの更新ができなかった。
「毎日ブログ記事を更新する」という、ブログページ開設当初の目標もブログ記事執筆開始から約3か月目にして断念である。
一日の大半の時間を使って取り組んでいる内容は、一切ブログ記事には書けないものである。そりゃ、ブログ記事を書こうにもネタがつくりにくい環境になってしまったわけで・・・
・・・まぁ、悔しいというよりかは。。。
何だか少し気楽である。
毎日、何らかの記事をひとつ執筆せねばならないわけだ。時間も体力も結構要るし、何より記事のネタを捻出せねばならない。
「パッ」と思いつけばジャンジャン書いていけるのだが、思いつかない時はPCの前で途方に暮れてしまう・・・
「無い袖は振れぬ」と言いたいところだが、やっぱり一度決めた目標はあんまり破りたくないものである。
「袖が無いなら、創れ」っちゅうことで、ネタを探すのにあれよこれよと色んな書物を読み返した日もある。
それでも何も思い浮かばずに( ゚д゚)ポカーンとしてしまって・・・
それこそ↓のような記事を書いてしまう日もあった
(↑ほんまにこの日は何も思い浮かばんかってんよ・・・御免やで)
上のような記事を書いた日は、ホントにお手上げな日だったけども、個人的に「ギリギリ間に合わせで作ったなー」と思う記事ならこれ以外にもいくつもある。
たった3ヶ月だったけども、ブログ記事を毎日更新するのは中々シンドかったなぁと思うことも多かったよ。
コンテンツネタが尽ききる前に「社会プレイヤーとして復帰する」という免罪符ができて良かったところはあるね。うんwwww
このブログ、「景嗣放浪記」は僕の文化的遺伝子 (ミーム) である。色んな思想だったり、考え方だったりをストレートに書き残している。
「ブログ執筆」という行為自体は、好きで好きでたまらない。
だが、「毎日記事を更新する」という縛りがでた途端、心身ともに負担ができて少しだけシンドくなる。
そういえば・・・・
最近、うちの少林寺拳法の道場に来てくれるようになった、「女子プロバスケットボール選手」が二人いる (前の記事で予告した二人目のバスケ女子も道場に来てくださった。入門してくれるだろうか。入門してくれたら記事にしようか・・・) 。
ひとりは、企業内所属のバスケ実業団 (厳密にいうとプロではないんかな?? 業務体系によって性質決定が変わり得るなー)
もうひとりが、ホンマもんのプロ。バスケだけでメシを食っていたというのだから、筋金入りである。
今回話をするのは後者の方。
彼女は、プロを引退して約一年が経つのだという。「久しぶりに運動がしたくなった」というので少林寺拳法の門を叩きにきたらしい。
・・・ん??
っていうか、アンタ、バスケしとけやwwww
とツッコミを入れたいところであるが・・・
・・・引退してスグに感じたことは、「とにかくバスケから離れたい、ボールすら見たくない、触りたくない」ということらしい。それこそ引退してからは運動競技自体から遠ざかるようにしていたのだという。
バスケットボールをようやく触れるようになったのが、引退してから一年後の今だというのだ。
プライベートでバスケットボールを再開するも、「できるだけ違うスポーツを嗜む方向でいきたい」というベクトルの心境であるとのこと。
彼女のそういう思いを聴いて、僕は気の利いたコトバを返せなかった。
おそらく女子バスケットボールのプロの選手として選抜された当初は、きっとバスケが好きで好きでしょうがなかったのではなかろうか。
それが、プロ組織に入団した途端、四六時中バスケットボールと向き合い続けねばならない。寝ても覚めてもきっと頭の中は「バスケ」の3文字でいっぱいだったんだろう。
引退当初の彼女がバスケでノイローゼになって、半分精神崩壊してしまった経緯も何となくだが想像がつく。
「好きなモノも度が過ぎれば、苦しみに変わる」
空腹時にはあれだけ渇望していた食事も、
満腹の状態になってなお食事を続けるのは苦痛であるのに似ている。
思うに
人間の行動は、娯楽と仕事に大別できる。
娯楽というのは、そのままの意味だ。「好きなことを思うがままにすること」だ。あくまで「行為を楽しむ」という行動の過程が重要なんであって、そこに成果やら結果やらを求めない。飽きたら・嫌になったら好きなタイミングで辞めればいい。
仕事というのは、過程よりは成果・結果を重視する行為である。結果によっては世間から爪弾きにされるし、結果によっては世間から歓迎を受けることであろう。自分の気分やらコダワリやらは無関係だ。結果を出すまではイヤでも動き続けなければならない。
好きなことをイヤだと思ってしまう原因は・・・
「仕事に娯楽を持ち込んでしまうこと」にあると思う。
仕事はあくまで仕事だ。不特定多数の社会プレイヤーの利害関係人の顔色が最も大事なのである。
僕自身、「仕事は好き」だと思うときはいくつもあるものの、これは「やりがい」に過ぎない。要は「やらされる」中で、自分にとって学びになったことという位置づけだ。僕自身の「好きなこと」とは全然違う。
「好きなこと」には自分自身のコダワリがあるはずだ。そういうコダワリでさえも結果成就のためには殺さなくてはならない。「好き」という度合いが濃ければ濃いほど歯がゆさはひとしおであろうて。
「好きなことで仕事をする」
近時ではこういうキャッチフレーズが流行っている。
最近では景気も良いし、求人倍率もずっと右肩上がりだ。就きたい職に就ける時代である。それにも関わらず、離職率が高くなっている昨今である。
自分のやりたいことがわからないというのもあるだろうが、
仕事に好きなことを持ち込んでしまってシックリ来なかった、という場面も往々にしてあるだろう。
僕の個人的な見解なのだが・・・
「好きなことに厳しい制限を設けるべきではない」
仕事と好きなことは分けた方がイイ。
仕事は飽くまで仕事。大事なのは「結果成就」なんであって、好きでもない得意なことを淡々とやればイイのである。そこに個人的なコダワリなど必要ない。あると逆にツラくなる。
ほんで、プライベートの時間で好きなことを好きなだけやればイイ。それこそやりたいときにはジャンジャンやって、「もうそろそろ休みたいわ」と思うときには少し休みを挟めるくらいに、だ。
僕が少林寺拳法を続けられているのも、「根を詰め過ぎていないから」だと思う。きっと毎日少林寺拳法の練習をして、「結果を出せ出せ」と利害関係人からの圧力に晒され続けたら、それこそ嫌になって辞めると思う。
やっぱりさ・・・
こんなクソつまんねぇ俗世で、やっと見つけた好きなことってさ。相当貴重なモノじゃん。
それを仕事に持ち込んでしまって、キライになるなんて勿体ねぇよ。
人間の寿命ってドンドン長くなってるやんか。
(僕は早死にするけどもwwww)
将来のライフワークとして、好きなことのひとつやふたつ、残しておきたいやんか。
いま自分の中にある「好きなこと」を大切に持ち続けて頂きたい。
そのためにも、いま「好きなこと」に対する向き合い方や取るべき距離感を掴んでいって頂きたいものである。
以上
景嗣