「本当の強さ」について その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は「『本当の強さ』について」シリーズの「その2」に該当する。

本稿を読み進めるにあたり、事前に「その1」の記事を読んでおく必要があるように思う。

以下「その1」記事のリンクを貼っておく。各自確認されたい。

「本当の強さ」について その1

 

さて、以下に「本当の強さ」とは何であるか、ということについて更なるフリートークを広げようと思う。

 

「腕力」「知性」「胆力」「忍耐力」など・・・

「強さ」とは何かと問われた時に、パッと思いつくものはおよそ上記のような概念である場合が多い。

すなわち、往々にして「個人が持ちうる」能力やスキルの優位性を指し示す傾向にあると考える。

しかしながら、前稿「その1」で記述させて頂いたが、上記のような「個人が持ちうる能力やスキル」は「諸刃の剣」である。プラスに働く場合もあればマイナスに働く場合もあり、時と状況によってその評価は変わり得る。

 

特に、よく見かける例として・・・

 

「強さ」に焦がれ、「個人が持ちうる能力やスキル」を伸ばすことに心を奪われて、「自分勝手になってしまう」あるいは「他者に対する思いやり」を見失うパターンというのは往々にしてある。

そうなると、周囲の人間からの「信頼」はたちまち失われ、いざ彼が誰かからの協力を仰ごうとしても、誰からの理解も協力も得られなくなるであろう。

 

その結果、長い目で見てその者は死に急ぐわけである。

 

これは、人間史上・長い歴史を参照しても何となく理解できる、一種の理のようなものだと捉えてもいいかもしれない。

 

思うに、上記で取り上げた「個人が持ちうる能力やスキル」というのは、飽くまで「本当の強さを体現するための手段」に過ぎない。その手段に目を奪われ執着しようものなら、たちまち周囲からの「信頼」は遠のき、破滅に向かうであろう。

 

だとすると・・

 

それは、真に「本当の強さ」とは呼べないのではないか・・・

 

 

さて、ここまでの考察を経たならば、「本当の強さ」とは果たして何であるかという問いに何かしらの解答を見出す方向性が何となく思い浮かぶのではないか。

 

見方を変えてみよう。

 

「目先の、個人が持ち得る能力・スキル」がどれほど高かったとしても、使い方を見誤り、周囲からの「信頼」を失うことで孤立し、破滅に向かうのが必至であるというならば・・・・・

たとい個人能力が高くなくても。周囲からの「信頼」を勝ち取ることさえできれば、誰かが手を貸してくれるかもしれない。自分の能力の欠缺を補い、なおかつ自分の強みを最大限に活かしてくれる者が支えてくれるかもしれない。

活路が見えてくるかもしれない。

 

「本当に強い人」というのは・・・・

彼の一声で、あらゆる能力を持ち合わせた人が集まり、大量かつ質の高い成果物をつくることのできる人間である。この結果は、周囲からの「信頼」があったらばこそ得られる。

そして、その成果物を惜しみなく、協力者のみならず、そのプロジェクトに全く関係のない人間にも分け与えることのできる人間である。

そういう人間は、あらゆる方向へ「信頼」をハイスピードで伝搬させることができる。

機会を改めてまた彼が一声を挙げたとき、前回を上回る数の人が彼に協力するであろう。

 

さて、上記のような「本当に強い人」が共通して持っている考え方があるように思う。

いったい何であろうか。

 

思うに「他者の幸せを考えること」である。

経験則であるが、自分に相対する人というのは往々にして「自分の鏡映しのような人」であることが多いということに気づく。

 

お辞儀をすれば、相手もお辞儀するだろう。

何かお土産を与えれば、相手も何かお土産を与えてくれるであろう。

殴りかかれば、殴り返してくるであろう。

 

これと同じようなものである。

 

つまりは、こうだ。

自分勝手なことしか考えていない人の周りに集まる人というのは、大抵の場合、自分と同じく自分勝手なことしか考えていない人であることが多い。

自己利益を優先する者どうしが有象無象に集まるわけだ。利害が一致する場面はいざ知らず、互いの利益が拮抗する場面になったとき、たちまち争いが勃発するであろう。

 

逆に、

他者の幸せを心底願っている者には、その者と同じく他者の幸せを心底願う者達が集まる。

そういう者は、互いの利益が一致する場面ではモチロン、たとえ自分に何らの利益をもたらす場面ではなくとも、相手が苦しい思いをしているときに「助け舟」を惜しみなく出してやれるだろう。

そういう人たちが集まるグループでは、きっと相互助け合いが活発で、苦しい思いのままでいる者は少ないであろう。

 

「献身的な心を持つ者のみに、献身的な人間が集まるのである」

「彼らの間にこそ、『信頼』が存在し、『信頼』によって固く結ばれるのである」

 

僕は、人間関係にドライ過ぎる。

大半の人間のことに興味がないし、信用もしてない。

こういう僕だからこそ、気づくのだが・・・・

人生25年、今でも腐れ縁で飲みにいったり付き合ったりしている仲間たちというのは、人間嫌いの僕が珍しく大切に想ってきた人達であることに気づく。

オコガマシイが、僕が大切に想ってきた仲間たちであるからこそ、今でも彼ら彼女らは僕のことを大切に想ってくれているのだろうと思う (僕が勝手にそう思っているだけかもしれんがなwww) 。

ありがたい。

この理に気づくにはあまりにも遅すぎたが、齢を重ねてようやく借り物のコトバではなく、僕自身の実感として表現することができる。

 

そう自分の中で「ボヤァー」と考えていた。

少林寺拳法の修行を再開し始めたのはおよそ3年振りである。

ふと、読本を久しぶりに開いてみた。

 

「本当の強さとは、自惚れでない自信と勇気と行動力を持った、拠り所となる自分となることである」みたいなことが書いてある。

 

「あれっ?? 景嗣がダラダラとしゃべっている論点と少し違うような気がする・・・」

 

そんなことはない・・・

 

「自分に相対する人というのは往々にして『自分の鏡映しのような人』であることが多い」と前述した箇所があったであろう。

 

自分の周りに見える景色というのは、それすなわち「自己の人格そのものを具現化したモノ」に他ならない。自己の人格がマイナスだから周りの景色がマイナスに見えるし、自己の人格がプラスであれば周りの景色もそれに応じてプラスになる。

つまりは、自分の周囲をプラスの作用のあるもので埋め尽くしたければ、まずは自己人格をプラスの方に形成していく必要がある。

そういう意味では、僕がここまで話をしてきた「信頼を得る」、「他者の幸せを考える」という話には、「自己確立」をある程度完成させる必要があるという前提があったうえでの話になると考える。

なので、少林寺拳法の教えの一般的な解答と僕の考えは親和的な見解であるように思う。僕は飽くまで「自己確立を完成させること」という立場を踏襲したうえで、もう一歩先の話をしたいというスタンスを採っているつもりだ。

 

 

 

そして、その先に少林寺拳法の目指す理想郷というのに・・・

「自他共楽」というものがある。

「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」という謳い文句である。

実は、この「自他共楽」というのは、「本当の強さとは」というトピックには載っていないコトバである。

読本に書いてあるコトバを形式的に目で追っている拳士からすると、「本当の強さ」について考えるフェイズと「自他共楽」について考えるフェイズが違っており、別次元の話と考えるのではないだろうか。

 

だが、僕自身の感覚としては・・・

 

「本当の強さ」ってのは、きっと

「『自他共楽』を根差した『献身的精神』を持てる度量」なんだと思う。

そのような度量を得る前提として、「拠り所となる自己の形成」、「自惚れでない自信と勇気と行動力の育成」があると考える。

 

こういう人は、きっと自分自身の可能性を見捨てることはない。

それと同時に、自分と同じように相手の持ち得る可能性に何かしらの魅力を感じることができるだろう。

そこに、相手に対する「献身的精神」が生まれる。

相手の幸せを思いやったうえでの行動は、必ずどこかで「誰かからの信頼」を持って帰ってくる。

その「信頼」をもとに集まった人間たちが団結し、ひとつの大義を成し遂げていくわけだ。

 

僕の実感として

こういう人は本当に強い。

自分自身がマイナスの感情に囚われ続けることはないし、仮に困難に出くわしてしまったとしても「信頼」を媒介にした仲間からの助けを得ることができる。

 

パラドクス的であるが

他者からの信頼を得たければ、まず自分が他者を信頼せねばならない。

他者からの手助けを受けたければ、まずその前に自分が他者にどれだけ手助けを与えられるかを考えなければならない。

 

では・・・

他者を信頼するには・・他者に手助けを与え続けるには・・

「健全な献身的精神」を持ち続けるには・・

そのためには・・・

 

結局は、「良心的な自己人格の形成に邁進せねばならない」

「己こそ己の拠るべ」

結局は、「自己確立」に集約される。

人生25年、今となってはこれこそが少林寺拳法の提唱する「自己確立=本当の強さ」と言われる本質であると考える・・・・

 

 

 

ホント・・・

こんなことに気づくのに・・・

遅すぎたよ・・

 

僕、景嗣はもう手遅れかも・・・

あとはゆっくり孤独に死を待つだけな気がする・・

 

だが・・・

幸い、僕は次の時代を生きることになる子供たちと触れ合う機会をありがたく頂いている。

 

せめて・・・・

 

次の時代を生きるこの子たちに、

伝えていきたい。残していきたい。

 

 

さて、僕は残り少ない余生で何を残していけるかな・・

生ある限り、何かしらの気づきを得て、

文化的な遺伝子として、その考え方を後世に残していきたいものである。

以上

景嗣

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