「本当の強さ」について その1

どーも、景嗣です。

 

徒然なるままにフリートークでもしよう。

いつものように・・・

取り留めもない話をベラベラとしゃべろう・・・

 

 

「『本当の強さ』とは何か・・・・」

 

少林寺拳法の読本の1ページ目に出てくるトピックである。

借り物のコトバでコピーアンドペーストすれば、端的に説明することは可能である。

だが、それではあまりコトバに重みが宿らない。

 

人生25年、色々な経験を経てきたつもりである。

本稿では、その経験則に基づいた、僕、景嗣自身のコトバを使って、「『本当の強さ』とは何か」という問いに対する一定の解答のようなモノを提示することにしたい。

 

いつも通り・・・

以下に記述することは僕の個人的な見解に過ぎない。

( ´_ゝ`)フーンくらいの気持ちで見流していってほしい。

 

 

さて、読者は「強さとは何だ?」と問われたときに何と答えるであろうか。

大抵の人は、「強さ」の定義を明らかにしようとしたときに、自分の経験の中で出会った「この人、強いな」と思わしめた人間をまず連想するであろう。

 

「腕っぷしが強く、喧嘩が強い人」

「頭が良く、どんな相手でも論破できる自信のある人」

「どれほど痛めつけられても、何度でも立ち上がる人」

などなど・・・

 

各人の経験則に基づいて、おそらくは十人十様の「強い人の像」を思い浮かべることであろう。

なるほど、「強さ」とは、ただでさえ抽象的な概念であるうえ、その実態は各人の経験則によって多分に形が変わり得るものである。

ならば、上記で例示させて頂いた各例も「強い」と評価してもいいかもしれない。各人がどのような解答をしようとも僕自身がそれを否定することは厳に憚られるべきであろう。

 

それを弁えたうえで発言させて頂く。

思うにそれは、「本当の」強さではない。

 

個人的な見解で申し上げると、上記で例示した「強さの例」は、

「本当の強さ」を引き立たせる「手段」という位置づけに過ぎないように思う。

 

 

今回は敢えて、オチは文章の後ろの方に置かせてほしい。読みにくいのを覚悟に少しだけ僕に付き合ってほしい。

 

 

例えば・・・「腕っぷし・喧嘩の強い人」はどうだろう・・・

 

弱い者イジメをする下衆が居て、それに対して有形力を行使し、弱い者を救うという場面ならば、周囲の人間は彼をプラスの方向に評価しようとするであろうが・・・・

 

場面が変わり・・・・

 

「腕っぷし・喧嘩の強さ」を純粋に求め続けて、道行く人に半ば強引に喧嘩を申し出て、相手をブチのめし続けるとしよう。

確かに、「腕っぷし・喧嘩の強さ」を追い求める彼自身は満足であろう。自分で考え出した技があらゆる実践で通用することを知ることができるし、その実践の中でまた新しい課題が見えてきて、本人自身の収穫は大いにあるだろう。

 

しかし、そんな彼を周りから傍観していた人からすると・・・

どういう感情を抱くであろうか。

 

おそらく・・・・

 

 

「この人、『自分勝手な人ね』・・・」

 

「腕っぷしの強さは評価するけど、『相手に対する思いやりはゼロなのね』・・・」

 

 

こういう評価が下ることは容易に想像がつく。

「上記のような強さとは『諸刃の剣』。使い方次第では、プラスの評価を頂ける場面もあれば、マイナスの評価を下される可能性も大いにあり得る」という見方もできる。

 

「包丁」を想像してもらうとわかりやすい。

肉や野菜を切るという場面においてはプラスの評価を頂けるものの、刃の切先を人に向けたとき、即マイナスの評価が下されることになろう。

 

 

読者の直感に問いかけたい。

「腕っぷし・喧嘩の強い」彼に、もし

「俺がもっと強くなれば、いずれ誰もが恐れ戦く最強の武人になる。誰も俺に逆らえなくなる。俺はもっと強くなりたい。俺に手を貸してはくれぬだろうか」

と勧誘を受けたら・・・

 

アナタは彼に協力するだろうか。

 

およそ大多数の読者は、彼に協力しないであろう。

 

多少、話が脱線気味になるが・・・

 

我々の生きる現実世界に、「たった独りで世界を掌握できるようなスーパーマン」などは存在しない。

 

人・人・人

この世において、一国を統べる者、その者の指示を受けて国の運営に携わる者、その国の方針に疑問を覚え国家転覆を企てる者。

その者の全ては、つまるところ「人」である。

 

たとい、その者の個人的なスキル・能力値が普通の人と比べてズバ抜けて高いというような場合であったとしても、所詮は身体ひとつの脆弱な人間に過ぎない。

その者独りが作りあげることのできる成果物には限界がある。

 

その昔、日本人は狩猟民族であった時期もあったが、弥生時代に差し掛かるころには、食物をより安定的に確保することを考えて、狩猟よりかは農耕の方向にシフトチェンジした。

農耕を営む上では、人ひとりでは管理運営しきれない部分が山ほどでてきたことであろう。独りであっては、豊年満作はおろか、全く成果物を得られない可能性もある。

そこで、自分以外の人を数人集めて、それぞれに役職を与えて分業させる。そして、得られた成果物を協力者のみんなに分け与えるという、分業体制を整えてきたのである。

 

この頃から、人間は孤独にいてわずかな成果物を独り占めするよりも、人間の輪をつくり大量の成果物を成しみんなに分け与える方が、種の生存確率が上がることを悟ったようである。

こういう経緯もあって、人間は「社会性」を身に着けるために、「脳ミソ」を進化させ、民族同士のコミュニケーション能力を高度化させてきたように思う。

 

それは、時代を経た今でも同じことであるように思う。

「会社」という組織体を作り、様々なスキルを持った人間を集め、分業させる。大量の成果物を得たならば、共に喜びその成果物をみなで分け合う。

それは、「家族」、「スポーツクラブ」などの組織体も同じような考え方で認識すればイイと思う。

 

人間は孤独でいるよりも、手を取り合って協力し合う方がイイ結果を得られることを本能的に識っている。

(近時、急スピードで文明が発展してきている。もはや、「企業体で群れを成さなくても『個人で』十分に生きていける時代がきた」という論者の声も大きくなってきている。この世は諸行無常、稲田ズイキ和尚よろしく「HENTAI」である。このような従来のセオリーも打ち破られる日がそう遠くはなさそうである)

 

 

話が長くなったが・・・

腕っぷし・喧嘩がズバ抜けて強い彼は、その場では勝利の美酒に浸り、新たな学びを得ることにはなるだろうけども、周囲から信頼を得られることはなく、いざ協力を求めたとしてもそれに応じてくれる人はいないであろう。

そうなると、長い目でみると、彼は孤立し誰からも協力を得られず、生きることすらままならなくなり、早々に表舞台から姿を消すことになろう。

 

 

果たして、それは「本当に強い」と言えるだろうか??

 

目先の強さ・目的達成のための手段に過ぎない強さに執着するあまり、目が曇り・・・・

 

「自分さえ良ければイイ」

「周囲のことは構わず、自分勝手に力を求めたい」

 

そういう考え方が定着してしまい、周囲からの「信頼を失い」、結果的に死に急ぐことになるのである。

 

思うに、これは「本当の強さ」ではない。

 

さて、「本当の強さ」とは何であるかのフリートーク。思った以上にアツく語ってしまっている。気づけば、まぁまぁな文字数に達してきている。

本稿を「その1」と位置づけて、稿を改めて明日以降に「その2」を投稿することにしよう。

 

こういう話はしょうもないだろうか??

少なくとも僕はとても興味のある議題であると思う。

読み苦しいところも多々あるかと思うが、もう少しだけ僕に付き合ってほしい。

以上

景嗣

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