「人は何故、大自然に癒されるのか」について その2
どーも、景嗣です。
本稿は、「『人は何故、大自然に癒されるのか』について」シリーズの「その2」である。
本稿を読み進めるにあたり、前稿「その1」を事前に読んでおくことを勧める。
以下リンクを添付しておく。
各自確認されたい。
ある日・・・
都会の、喧騒の絶えない街並みをトボトボ歩いていた。
ただでさえ、人間が群れをなして「ガヤガヤ」と騒いでいるのに。
それに加えて、辺りは建造物・機械装置といった「人工物」がそこら中に設置されている。
ちょいと歩いただけでも、周りの物という物が次々に僕に「自己紹介」し始める。
理由はよくわからんが、メマイがしてきた。
たまらなくなって、都会の街並みをすり抜けて、あまりヒト気のない公園のベンチに腰掛けようとした。
腰かける際にも、ベンチが僕にこう話しかけてくる。
「やぁ、僕は『ベンチ』、人が歩き疲れて一息つきたいと思った時に僕の出番、僕に腰掛ければ心身ともにリフレッシュできるってわけ。僕はSSでできているの。結構板厚のあるチャンネルとアングルも使っているから、総重量はまぁまぁ重いのね」
「ほんでさ、ほんでさ。僕の表面塗装、色鮮やかでしょう?? 赤っぽいオレンジ色さ。マンセル番号は『2YR6/13』 黄色の次くらいに子供に注意喚起するのに適した色なのね。この塗装、けっこう手間暇かけているんだよー。しっかり脱脂して、下塗りもバッチリやってさ。しっかり「焼き付け塗装」してるから、色ノリが鮮やかでバッチリさ!! ほんでさほんでさ、この部分見てよ。普通なら凸凹ができる部分なんだけどさ、しっかりパテも塗ってあるから、平面になっているの。座り心地も言うことなしさ!! イエーイ!!」
(読者が思っている以上に塗装の世界は深い。前職では、塗装業者さんに大変良くしてもらった。個人的に一番お世話になったと思う。その塗装業者さんに塗装の奥深さについて懇切丁寧に色々とご教示して頂いた。中々おもしろいよー)
や、ベンチよ。
キミの材質、製法・塗装方法とか、原価とかさ。面白いんだけどさ・・・
いま、そういう気分じゃないからさ・・・
ちょっと静かにしてくれよ・・・
頼むからさ・・・
そう思いながら、ベンチに腰掛けた。
公園の辺り一面を一瞥する。
鉄棒も、雲梯も、電柱も。色々な物が僕に「自己紹介」してきて、「ガヤガヤ」と非常にウルサイのだが・・・
目の前にある樹木が視界に入ったときである。
あることに気づいた・・・
「その樹木だけ、何もしゃべっていないぞ・・・・」
「唯一、目に見える物体の中で、その樹木だけが沈黙を決め込んでいるじゃないか・・・・」
樹木がしゃべらないのは至極当たり前であるが、あらゆる物々が僕にしゃべりかけてくる世界では、その状況が非常に珍しく思えた。
あらゆる物々がやかましくしゃべる中、何故樹木は沈黙しているのか・・・
そこで、改めて物々から聞こえてくるしゃべり声は何であるかを自分に問うてみたのだ。
車や新幹線は、なぜ作られるのか。それは、「人間が」短時間の間に遠い距離を移動したいと「思う」からだ。
冷蔵庫は、なぜ作られるのか。それは、「人間が」賞味期限のある食物をなるべく新鮮な状態に保ちたいと「思う」からだ。
エアコンは、なぜ作られるのか。それは、「人間が」気温が寒いときには屋内を温かくし、気温が暑いときには屋内を涼しくしたいと「思う」からだ。
ときに、車とは言っても、なぜ日本の車の板金フレームはあれほど薄く、へこみやすいのか。それは、「日本人が」車が衝突事故を起こしたときに、板金フレームが凹むことで、衝撃が吸収・分散され、搭乗者への衝撃をなるべく少なくさせようと「思う」からだ。
板厚が薄いと加工の精度・溶接のひずみなどの難易度が上がるものの、その問題をクリアーできる技量さえあれば、車体総重量が低くなるため、原価も安くなるし、何より機械の燃費が良くなる、とも「思う」わけだ。
「人工物」というのは、往々にして「こういうことをしたい」という人間の欲求を叶えるために作られるのだ。
差し詰め、「人工物」は『人間の心の表れ』そのものであるといえる。
その「人工物」のバックグラウンドには、その存在意義、製法、価格、品質など、そのすべてに「人間の心が介在している」
そうか、物々のしゃべり声の正体は、「人間の心」だったのかもしれない。
都会の街並みに出れば、あらゆる「人工物」がゴロゴロ転がっている。
僕みたいに都会に住む者からすると、四方八方「人間の心」に囲まれているといっても過言ではなかろう・・・・
ただでさえ、人間と関わるのは鬱陶しいのに・・・・
都会の街並みを一歩ずつ歩くたびに、「人工物」すなわち「人間の心の声」に晒され続けていくわけである・・・・
人工物は『人間の心の表れ』であり、その物の存在・特性など、その全てに「人間の思惑」が介在しており、それが声となって僕の耳に届いてきていたとはな・・・
ところかわって・・・
目の前にある樹木には・・・・
「人間の心・思惑が一切介在していない」ことに気づく。
なぜ、樹木は生えてくるのか。
や、知らんよ。自然と勝手に生えてくるわけで、それに「人為的な」理由なんてない。
なぜ、樹木は、真っ直ぐ生えないのか、なぜしわしわなのか。
や、知らんよ。自然と勝手にそういう風になるだけで、それに「人為的な」理由なんてない。
なぜ、地表の7割は海でできてるの。
や、知らんよ。自然と勝手にそういう風になっただけで、それに「人為的な」理由なんてない。
や、そら、生物学や地学的な話をすれば、そういう風になっている理由を人間が「後付けで解釈して」、言語化して説明できるけどもやな。
大自然がそのような在りようになっているのに、少なくとも「人間の心・人間の思惑」は介在していない。
大自然に「人間の心・思惑」が介在していないがゆえに、大自然を見ても「人間の心の声」なんて一切聞こえてこないのである。
思うに、大自然がもたらす心理的な癒し効果の一因には、「人間の心からの解放」という要素があるのではないか。
自分もそうだが周囲の人間の心にガンジガラメにされると、自己のメンタルが負の方向へ堂々巡りしてしまう傾向にあるように思う・・・・
そういう状況で・・・
「人間の心が介在しないもの」に触れたとき、「人間の心」でガンジガラメになりがちの日常生活では得られない「モノの考え方・感じ方」がスッと自分の中に入ってくるように思う。これによって、堂々巡りしていた自己のメンタルをうまく調整することができるような気がするんだ。
それこそが、大自然がもたらす心理的な癒し効果の主たる要因のひとつなのではないかと思うわけだ。
そういう意味では、意味不明な構成・奇怪な形状の、美術アートというのも、大自然がもたらす「人間の心からの解放」という効果と同等の効果を期待できるのかもしれない。
これらは「人工物」であるものの、「人間の心・人間の思惑」が限りなく見えにくい、あるいは介在しない物であることが多いような気がする。
だからこそ、人々は「人間の心からの解放」を渇望するがゆえに、それを見たがり、そしてそれにお金を払うのかもしれない。
そんな気がするのだ・・・・
人通りのない昼下がりの公園。
静かに思索にふけって、ひとつの気づきを得たような気がした。
しばらくは、「モノ言わず、沈黙を決め込んでいるその樹木」のことを見つめていた。
「人間の心・人間の思惑」というノイズが一切存在しない樹木が、風に吹かれて静かにユラユラと揺れている様子を、ただボンヤリと、見ていた・・・・
俗世間には物が溢れすぎている。
ただでさえ、人間と関わるのは鬱陶しいのに。
次から次へと、ポコポコと物を作りよって。
「人間の心・人間の思惑」をそこら中に巻き散らしよってからに・・・
現代人は慢性的に「人間の心・人間の思惑」に晒され過ぎている。
ゆえに、人間のコンディションに偏りができて精神疾患が流行るのも、何だかわからんでもないな・・・・
こういうご時世ゆえに、大自然がもたらしてくれる「人間の心からの解放」という効果に積極的に身を委ねていくことで、人間が本来持つバランスを取り戻せるかもしれない。
俗世を離れて・・・
ただただ、「意味無きモノ」を眺める。
静かに、自分の心を整えるために・・・
以上
景嗣