5月12日 僧侶の法話 その2

どーも、景嗣です。

 

本稿は「5月12日 僧侶の法話」シリーズの「その2」である。

本稿を読み進めるにあたり、本シリーズの「その1」を事前に読んでおくことを勧める。

以下リンクを貼っておく、各自確認されたい。

5月12日 僧侶の法話 その1

 

それでは、続きの執筆にとりかかる。

 

現代において、「人間関係のもつれ」によって引き起こされる事件が多いという状況と私自身の気づきを通じて、

私は「最近の人は『ある言葉』を使わなくなった」というのを連想しました・・・・

その言葉というのが、2つありまして・・・・

 

1つ目は、「ありがとう」です。

 

現代人はこの「ありがとう」という言葉を使わなくなりましたねー。

相手に何かしてもらったとき、たといほんの些細なことであったとしても、一言「ありがとう」と言っておくのです。

相手からすると、「ありがとう」と言われたら気持ちが良いですね。過度に「ありがとう」と言われることを期待するのもどうかと思いますが、やっぱり親切心で助けてあげたのに「ありがとう」といった感謝の言葉を言われなかったら、あまりいい気分にはなれませんね。

 

「ありがとう」と言わないから、相手が自分に対して嫌な心証を持ち始めるのではないでしょうか。

それがエスカレートして紛争・事件が起こるのではないでしょうか。なんだかそんな気がするのです。

「ありがとう」を安売りする必要はありませんが、やっぱり言われた側は気持ちいいですね。その場の人間関係が良好になることもさながら、お互い親切心が良い具合に芽生えてきて、その場以外の人間関係も良くなっていくのではないでしょうか。

 

 

2つ目は、「すいません」ですね。

 

この「すいません」という言葉も現代人は使わなくなりましたねー。

後輩僧侶の指導をする機会もチョロチョロとあるのですが、現代人はこう言うようになりましたねー。

「や、それは・・・こうだと思ったから・・・・仕方なく・・・・」

はい。開口一番、言い訳節なんですね。

確かに、何か自分の中で良かれと思ったことがあったり、何かしらの理由があったりするのでしょう。各人、色んな事情があるでしょうから、その辺も受け止めるように私も努めますが・・・

やっぱり、道理を外したなら、まずは「すいません」と言うべきではないでしょうか。

理由はどうであれ、「あぁ、この方、あんまり反省しとらんな」という具合で、論理以前に感情的に相手を受け入れたくなくなりますよね。

些細なことではございますが、やっぱり人間関係のもつれのきっかけに大いになり得るのではないでしょうか。

それこそ、お互い怒りが「ヒートアップする」感じで。

どんな事情があれど、道理を外したならば、まずは「すいません」から始めるのが良いんじゃないでしょうか。

 

この「すいません」という言葉は、結構強い言葉なのではないかとも思うのです。「すいません」と言えば、形だけだとしても、「自分の非を認めて、陳謝申し上げている」わけじゃないですか。

相手としては、「謝っているわけだし、この辺で許しておいてやろうか」という気分にもなりますよね。また、自分の非を認めて謝っている相手に対して、これ以上責め立てるならば、逆に責めてる側が今度悪モンになってしまいますね。

 

「すいません」という言葉には、「人間の狂気を鎮める」という強い働きもあるのではないかと思うとります。

 

これら、2つの言葉は「魔法の言葉」だと思うのです。ストレス社会とも評され、激情するゆえに引き起こされる事件が多い現代社会では、なおのこと注目すべき言葉ではないかと思うのです。

まず、「最近の若者は態度が悪い」だとか、「キレる老人が増えた」とか、行き場のないイライラを自分の頭に募らせる前に、「自分は相手を激情させるような言動を行っていないかな」とか「激情させたとして、それを鎮められるような言葉のチョイスをしているのかな」ということに思いを巡らせてみるのです。

 

世の人間の在り様を憂う前に、自分の言葉・行動を顧みることこそ大事ではないか、という思いを胸に日々精進致したいものですね。

 

これにて、法話を終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。

 

 

ふぇー・・・・

なるほど、表面的にはありきたりな話であるようにも思うが、僧侶自身の経験からの考察部分などはリアリティがあり、思わず聞き入ってしまうような、良いお話であったかなと思う。

 

まぁ、僕も含めてみんな不完全な人間だ。「モノゴトの理は『因果応報』。今自分に降りかかっている災難の真因は、詰まるところすべて己にある」と、心の底から納得できる者は中々いないのではないかと思う。

 

とはいえ、

自分と他人は違う人生軸を生きているわけで。それゆえに十人十様の価値観・モノゴトの見方というのがあるわけで。

自分が当たり前のように採る行動・言動が、他人からすると不快感の原因にもなり得るわけだ。それこそ自分が預かり知らぬところで、だ。

 

僕、景嗣も、本ブログ「景嗣放浪記」の中では、達観した感じに偉そうに能書きをたれているものの・・・・

言葉使いがかなり汚い。

育ちが悪いもんで、「うるせぇ、ジジイ」とか「てめぇ、ぶっ殺すぞ」とか悪びれもなく、ついつい言ったりしてしまう。

 

余談だが、僕はよく「高橋克典に似ている」と言われる。おそらくこれは人間関係をよくしようとする思惑のもと良いように言ってくれているだけだと思う。

まぁ、実際のところ、「常にしかめっ面のヤクザ顔の男」と評するのが妥当な解釈なのではないか。

 

人を蹴りまくっているため、スネの骨が陥没しているヤクザ顔の男が「てめぇ、ぶっ殺すぞ」と呟くわけである・・・・

 

僕の近くで生活をしたことのある人の大半は「景嗣くんって、なんかコワい」と思ってたんじゃないかなって、そんな気がするのだ (だから、たいていの場面で僕は敢えて無口を決め込んでいるわけだが・・・・) 。

 

それに、相手から売られた喧嘩は高く付いてでも買いに行くタチでもある。何ともハタ迷惑な奴であるwwww

(おそらくは、幼少期に毎日黄色人種に迫害され続けたときに身に着いた防衛本能が働いているんだろう・・・ホント、人間嫌いが直らんwww)

 

そう思うと、僕と喧嘩している当事者はモチロンのことではあるが、それを見ている第三者は僕に良い印象を抱きはしないだろう。そういう人が知らないうちに増えて、いつの間にか僕の周りは敵だらけだったというケースは少なくなかったように思う。

 

まぁ、若気の至りである。

今思えば、当時もう少しウマく立ち回っておれば、少しくらいは円満な人間関係を醸成できたんじゃないかな。ひいては、いま自分が置かれている苦しい状況も少しは楽な方に傾いていたんじゃないかな・・・

ある程度、齢を重ねてマルくなった今、だんだんそう思うようになってきたな。

 

「今の自分が悪い境遇に置かれているのは、全部自分が原因である」と心底納得するのは難しいけども・・・・

 

「自分にも至らない部分があるかもしれない・・」と思うことのできる「余裕」を持つことが結構大事ではないかと思う。

 

「余裕」を持ちさえすれば、一旦立ち止まって、少しでも柔和な言動をとるように心がけることができるだろうし、相手がどんな言動をしようとも「カッ」と一触即発することなく、無難な行動を選択することもできるだろう。

 

そうすれば、自他共に「カッ」となることが少なくなるような気がする。

 

そうなると、だんだん・・・

一人一人が平穏な毎日をおくれるようになるかもしれないね・・・

 

各人の付き合いが閉鎖的で、なおかつストレス社会と評される現代においては、なおのこと大事にしていきたい思考パターンであるかな、と思った。

 

いやー、またひとつ為になる話を聴けて勉強になった。

僧侶よ。貴重なお話を賜り、大変感謝している。

 

残りの人生、自分の思考に「ハッ」と思わせてくれる瞬間のある人にできるだけ会えるといいな。

死ぬまでに色んな気づきを得たいものである。

以上

景嗣

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