5月12日 僧侶の法話 その1

どーも、景嗣です。

 

5月12日 (土) 、とある故人の三回忌が催されまして。

 

当三回忌の経を担当して下さった僧侶から、ありがたいお話を聴かせて頂いた。

(その僧侶は、本ブログ「景嗣放浪記」の常連、「稲田ズイキ和尚」ではない。残念、悪しからず・・・)

 

今回は、その僧侶から頂いたお話の内容を少しだけ記事にしてみようと思う。

よかったら見てやってほしい。

 

なるべく、その僧侶の一言一句を再現するように努める・・・・

以下、僧侶の法話である。

 

 

「最近の若者はダメですな。すぐキレる・・・」

というようなお話を各方面から耳にしますが、私自身は若者に限ったことではないと思っておりまして・・・

 

私の経験ではございますが・・・

ある日、道を歩いておりましたら、ベビーカーに赤ちゃんを乗せて歩いているお母さんがおりました。

そこに前方から、おじいさんが歩いてきましてね。徐々にそのお母さんと赤ちゃんの方に向かって歩いて行ったんですね。

「あぁ、赤ちゃんのことをカワイイと思って、優しく話しかけにでも行ったのかな」と思っていましたら・・・

 

突然、そのおじいさんが、赤ちゃんの顔を叩いたんですね・・・・

 

何事かと思いまして、私がおじいさんとお母さんとの間に割って入ってお話を聴いたところ、おじいさんがこうおっしゃったんですね・・・

 

「わしの家の近所におるクソガキが毎日ウルサクてのう、クソガキを見るとイライラするんじゃ、やから叩いたんや」

 

何とも、まぁ・・・・

 

いくら近所の子どもに生活の安寧を崩されているからといって、この赤ちゃんはそれとは無関係でしょ。それでもおじいさんは、自分のことを悪くないという態度を改めず、非常に難儀したという経験がありまして・・・・

 

昨今、よく「ムシャクシャしたから刺した」とか「イライラしたから殴った」とか、奇怪な事件が多いですね。思うに、現代社会において「キレる」というのは、老若男女を問わずに多くなっているような気がするのです。

 

私自身も日常生活をする中で、現代人の態度に少しばかりモノ申したい場面がいくつかあるなと、ふと思いまして。

2つ具体的な例を紹介いたしましょう。

 

狭い通路を自転車で通ろうとした時に、前方にいる青年二人が横に並んで歩いておったので、通れないという状況がありまして。

「すいません、通して頂けないでしょうか」と申し出たところ。

 

「あぁ!!?」って今にも言わんばかりの目つきで私を睨みよったんですね。

 

これには私も少しばかり、「イラッ」としましたね。

普通なら、一言「すいません」とでも言うべきところ、そういうアクションに出られて、非常に気分が悪かったですね。はい・・・

 

 

また、私が散歩をしておりましたら、おばあさんが前から歩いてきまして。

そのおばあさんと私とがスレ違うタイミングで、おばあさんが手拭を落としはったんですね。

私が、手拭を拾って、「はい、手拭、落としましたよ」と手渡したところ、

一言だけ「どうも」と言って、私に目を合わそうとせず立ち去りよったんですね。

こういう場合、ちゃんと目を合わせて「ありがとう」というのが普通ではないでしょうか。この事案についても、大変気分の悪い思いをしましたね。はい・・・

 

 

さて、2つほど具体的なエピソードを挙げさせて頂きましたが、これらのエピソードの登場人物の中で、最も悪い人は誰でしょうか・・・

 

 

 

はい、答えは「私」ですね。

 

 

 

狭い通路で通せんぼされていたら、その道を無理して通らんでも別の道を選択して迂回すればいいだけですし、手拭を「拾ってあげた」というだけで何かしらの見返りを期待していた自分がそもそも悪いんですね。

 

結局は、私自身の心の持ちようであったり、行動指針の取りようであったり。こういうものがそもそもの原因ではないかと考えるようになったんですね。

 

おそらく、二人の青年からしたら「後ろから無理に道を通ろうとするうっとうしいオジサンだな」と思えただろうし、おばあさんからしたら「要らぬお節介をする若者だな」と思えたことでしょう。

 

そう考えると、「私自身も無神経なところがあるかもしれない」と思えるようになりましてね。

そういう些細なことで「イラッ」とさせられる事件に巻き込まれたときに、「自分が人様に対して今までにしてきた無神経な行動の『報い』を、今まさに受けているのではないか」とも思えるようになりまして。

 

古来より、「因果応報」とはよく言ったもんでして。

あらゆる紛争にも、事件にも、何かしらの被害を受ける時というのは、必ず何かしらの原因が自分にあるのではないかと、私も思うのです。

飽くまで想像するだけですが、私を睨みつけた二人の青年も、ほとんど私のことを無視したおばあさんも、その態度が今後別の場面で現れて、何かしらの報いを受けるのかもしれません。

 

原因というのは、直接の原因でなくとも、「間接的な原因」というのも多分にあるのではないかと思います。

特に、「言葉遣い」ですね。

どんな些細なことでも、思わぬ言葉遣いで他人に不快な思いをさせたり、傷つけたり。本人の預かり知らぬところで、他人に「負の感情」を抱かせるということが大いにあるかと思います。

言葉の力というのは、私たちが思っている以上のものであるような気がします。

私は「言霊」というのはあると思うとります。

 

昨今、起こっている事件を見ましても、必ず二人三人、あらゆる人間関係が交錯しておりますね。メディアでは、「刺した」「殴った」という部分が大きく取り上げられますが、実際はそこに行き着くまでの経緯が色々とあるのではないかと想像しております。ほんの些細な言動に「イラッ」ときたのが始まりで、ドンドン「負の感情が」お互いにエスカレートしていったのではないでしょうか・・・

 

私自身、そんなような気がするのです。

 

現代で、「人間関係のもつれ」によって引き起こされる事件が多いという状況と私自身の気づきを通じて、私は「最近の人は『ある言葉』を使わなくなった」というのを連想しました・・・・

 

その言葉というのが、2つありまして・・・・

 

 

さて、文字数もボチボチいい頃合いになってきたんで、途中やけども一旦ここで一区切りしておこう。

本稿を「その1」と位置づけておいて、「その2」を明日以降に投稿しよう。

 

さて、その2つの言葉とは、いったい何であるか。

「その2」執筆まで、読者各自で考えておいて頂きたい。

続く

景嗣

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