モノゴトの両極性について

どーも、景嗣です。

 

何気ない日常。

 

今日も平和な時間が徒に流れる。

 

このブログを執筆しているこの瞬間にも、世界中ではたくさんの子どもたちが「生」を宿して、この世に生まれてくる。

 

僕はいつもこういう風に考えてしまうのだが・・・

 

「『生』が生まれたのと同時に、そこに『死』が生まれた」と・・・

 

犬を「か弱い」と形容するならば、それと同時に「強い」ものが頭の中で連想されるのがわかるだろうか。

 

「生」「強」「高」「剛」「陽」「幸」という概念が生まれるのと同時に、

「死」「弱」「低」「柔」「陰」「不幸」という反対概念が生まれてくる。

 

思うに、ひとつの概念が生まれる時というのは、それと同時にその概念の反対概念も生まれるのではないか。

 

それは逆も然りであって・・・

 

仮に「死」という概念をこの世から抹消してしまうとする。

そうすると、「生」とは具体的に何であるかと問われた場合に、どうにも説明がつかなくなるのではないか・・・・

結果、そこには何らの表現も生まれてこないように思う・・・

 

「いま、僕は生きている。生きている実感がスゴイ湧く状態なんだ」

彼がそういう風な発言をする背景には、必ず、「死んでいる僕、死んでいる実感」という反対の感覚概念が潜在的に意識されているように思う。

その「死んでいる僕、死んでいる実感」という感覚概念こそが、「生きている僕、生きている実感」という概念を支えているように思う。

想像しにくいかもしれんが、「死」という概念を完膚なきまでに抹消してしまったら、「生」とは何であるかを表現できなくなるんじゃないか。

今の自分の状態を表現できないゆえに、彼は「沈黙」という選択肢を取らざるを得ないのではないか・・・

 

少し遠回しで分かりにくい表現になったかもしれんが、「生」という概念が生まれれば、「生じゃないもの」が生まれて。

その「『生じゃないもの』というのがニアリーイコールで『死』なわけであって」。

この「死」というのは、「生」とは改めて何であるかを説明しようとしたときに、重要なガイドラインになるのではないか、という話だ。

(御免ッ、余計に混乱させてしまったかもしれない・・・)

 

「生」と「死」といった概念・反対概念は、全く別物というわけではなく、どうやら、お互いの存在を支え合っている、『相互補完的な関係』なのではないかと思うのだ。

 

そういう話を前提に最近思うことがあるのだ・・・

 

いつも、同じサンプルで大変申し訳ないのだが・・・

 

少林寺拳法の技には・・・・

打撃系の「剛法」と、抜き投げ系の「柔法」とがクラシファイングされる。

 

僕は三段拳士、いよいよ使う技術も高度になってくるわけで・・・・

 

突き、蹴り、受けなど、本来「剛法」として分類される技術を用いて、相手の体を崩すことも多くなってきている。

本気を出し、意識を集中させて、タイミングがバッチリ合えば、「剛法」の技で相手をこかせることだって普通にできる。

つまり、本来的には「剛法」と認識される技術が「柔法」的な用法として体現される瞬間が、まぁまぁ、あるということだ。

 

また、

 

抜き、投げなど、本来「柔法」として分類される技術の有効性を考えた場合に、相手の体の崩しをどうやって効率的に行うべきかを考える。

ときには、教科書どおりのやり方では全くかからない技もでてくる。僕みたいに細くてチビの拳士は、ショッチュウこの壁にぶつかる・・・・

そこで、従順なうちは「当身」という、「柔法」とは切り離された、レッキとした「剛法」の技術を「柔法」の中に取り入れるのだが。

段位が上がってくると悪知恵も付いてくるわけで・・・・

人体の急所の位置を本能的に把握し始め、密かに相手の急所に圧力を加えてその痛みによって相手の体の安定性を崩し、本来の「柔法」を成立しやすくさせたりする。

見方によれば、その「柔法」と認識される技は、本質的には相手の急所に圧力打撃を加えることで成立させる「剛法」という見方もできなくはないのかな、と思うときも最近多いのだ。

(熊手系の柔法などは、特に指間の急所をゴリゴリに攻め倒す・・・ 丁字系もショッチュウ、ゴリゴリに攻め倒すか・・・・)

 

少林寺拳法には、「剛柔一体」という概念がある。

剛法の中に柔法の要素があり、柔法の中に剛法の要素があると説明される。

いわゆる「相互補完の関係」だと説いているのだが・・・・

 

ここ最近・・・

どちらかというと・・・・

 

そもそも、剛法と柔法のどこに明確な境目があるのか、正直わからんのである。

 

まぁ、僕は頭がスゴク悪いが、モノゴトの分別くらいはつく。一般定義としての剛法技と柔法技の教科書的な分類は普通にできるが・・・

 

己の修行の感覚を振り返る際に、「自分の中で」剛柔の分類を行ったときに、どこまでが「剛法」で、どこまでが「柔法」なのか。線引きというか・・・ 境目の設定がまったくわからなくなる。

自分の技術が高度化すればするほど・・・

自分が思索にふければふけるほど・・・

判別するのが困難になってくる・・・・

 

少しわかりにくかっただろうか・・・

 

思うに、ある概念とその反対概念の性質を多角的にかつ深く分析していくと、両者の区別がもはやできない段階にまで辿り着くような気がするのだ。

 

突き詰めると両概念は、表面的には相反するものであるが、溶け合っている状態の部分が存在して・・・

 

やがて・・・両者共に同一の・・・判別可能性が極端に皆無な段階にまで到達するような気がしてならない・・・・

 

頭のおかしなことを言っているだろうか・・・

僕はいたってマジメに次々に目の前に提示される難問に応えようと努めている・・・・

その結果なのだ・・

 

そうだな・・・ わかりやすく言うなら・・・・

 

「あいつらは『戦争法案』を作ろうとしている。お前らは『馬鹿か!!』」

「何が『憲法9条を守る』だ。隣国に攻め立てられてもいいのか!! 『非国民どもめ』!! 貴様らは『阿呆か!!』」

 

極端な、右と左・・・・

両者共に対局な属性を有するも・・・・

相手に対するリスペクトの欠落の程度、相手を貶める過激な行動原理は、まるで似た者どうしなように思う。

僕からすると、本質的には、コイツらは同類である。。

 

 

思うに・・・

人間というのは、ムヤミやたらに目前に在る、事象・事物に何らかの性質・意味を与えるのを好む生き物であると思う。

「分ける」という能力は本能的に必要な能力だ。食物に毒があるかないかを峻別したり、自分にとっての敵と味方とを判別する能力がなければ、おそらく人間は食物連鎖の頂点には立っていないであろうし、ここまで文明を発展させることはできなかったであろう。

論文執筆の経験があれば頷ける話だが。

ある事象や、ある問題、それを解決するためのある道具立てに何らかの性質を付与し、類型をつくって分析するというのは、研究におけるポピュラーな方法論である。

それくらい、人間は事象に対する意味付け・性質付けをして、何かしらの説明をしたがるという習性があるように思う。

その副産物として、反対概念が同時に出現するに過ぎない・・・・

先ほどの「剛柔一体」の話に戻るが、その実、ある概念とその反対概念は、突き詰めれば、究極的には同一の事象かもしれなくて、両者を厳格に区別する意義というのは存外ないのかもしれない・・・・

 

 

以前、景嗣放浪記のとある記事に上がっていた議題であるが。

 

「25歳に差し掛かって結婚して家庭を作るのは『良い』」というけれども・・

じゃあ、「25歳に差し掛かって結婚できない奴は『悪い』」のか・・・

 

そもそも・・・

 

「良い」とは何だ??

「悪くない状態」のことか??

だとすると、「悪い」というのは「良くない状態」のことを指すのだろうが・・・

上記のようなコトバのアヤは、思うに、さして重要ではない。

 

問題は、究極的に、「何を以て『良い』とするのか、何を以て『悪い』とするのか」であろう。

 

キミがそれを「良い」と性質付けた瞬間、別の次元で「悪い」モノが生まれるに過ぎなくて・・・・

キミじゃない誰かが「悪い」と性質付けたものがあれば、その瞬間、別の次元で「良い」モノが生まれるに過ぎなくて・・・・

 

観察者の目によって、良悪の濃淡は常に変わり得る・・・

ていうか、完璧に同じ濃度に仕上がるはずがなかろうて。

 

その実、「良悪」の境目なんて曖昧模糊なんじゃないか。

 

ともすれば、「良い」も「悪い」も別に関係なく、両者ともこの現実世界に体現される何らかの事象であることには変わりはなくて・・

 

ゆえに、さきほど、「良い」だとか「悪い」だとか形式的に評価した事象は、実のところ・・・・

究極的には「同一のモノ」であるという見方もアリなのかもしれない。

 

読者にとって、「良い」と「悪い」という相反する概念が「同一のモノゴトである」という発想は理解しかねるだろうか・・・・

僕の感覚的な話になってしまうが、思うに、それは事象に対する分析を放棄し、思考停止した人の考え方である。ひとつの事象について長時間突き詰めて考え倒していくと、必ずといっていいほど上記のような境地に辿り着くはずだ。

 

しかしながら・・・

突き詰めれば、何事も同じであるかもしれないという可能性が見えなくなって、表面的な分類わけを行い、曖昧な良悪の基準によって、「僕は良くない」「私は悪い」と勝手に傷ついている人がこの世の中に何と多いことか・・・・

 

思うにこれこそが、釈迦の言う「煩悩」の代表例、「執着」が苦しみをもたらすとされる所以ではなかろうか。

 

 

ここで、核心を突かせてもらう・・・・

 

 

人間が生き残っていくために身に着けた、「分類わけ」の習性によって・・・

突き詰めれば同一の事象を「良い」か「悪い」かに勝手に分けて・・・・

「良い」に「執着」するあまり、いざ「悪い」という立場になったときに苦しむのである・・・・

 

その苦しみはどこから来ているのか・・・・

 

それは、「事象を稚拙な二分論で分断しようとする『己の心』」ではないか??

キミたちが勝手に決め込んだ「悪い」という評価に囚われて、自分勝手に負の感情に陥っているのである。

 

だとすると、その苦しみは不可避というわけでもなさそうだ・・・

むしろ、キミが無意識のうちに身に着けて手離そうとしない、「バイアス」という眼鏡を外すだけで、その苦しみから簡単に開放されるのではないか・・・・

 

「良い」か「悪い」かといった、表面的な評価を取り去って、

モノゴトをありのままに見つめていくと、

相反する性質のモノであると思っていたことが、次第に同一に思えてくるかもしれない。

 

そうすると、見えてくるコトがある・・・

 

もはや、「良い」とか「悪い」とかの「分類なんて何の意味もなさないこと」を悟って・・・・

 

限りなく「モノゴトに対する執着がなくなる」・・・・

 

そうすると、「執着によってもたらされていた苦しみから途端に解放されるかもしれない」・・

 

 

「景嗣さん、そんなこと言ったって・・・そんなんムリだよう・・・」

 

「バカやろう、いつまで自分で自分の首を絞めているのだ。お前さんが今感じている苦しみはお前さん自身の執着によってもたらされているに過ぎない幻想であろう。それゆえに、お前さん自身の意志で簡単に苦しみから解放できるというのに・・・勿体ないのう・・・」

 

僕自身も人間だ。モノゴトへの「執着」を完全に取り去ることは不可能だ。

ただ、今自分が感じている不快感の真因は、己の中にある「執着」であると認識することはできるだろう。

誰であってもね。

そうすると、少しくらいは、抑えられない自分の負の感情をコントロールすることができてくるのではないか・・・・

 

本来25歳の若輩者が吐露する言論ではないかもしれんが。

人生25年、あらゆる経験を経て、この境地にようやく辿り着いた。

 

「執着」を限りなく減殺できたように思う。

この苦しみを・・・ この心の虚しさを・・・

限りなくゼロに近くする思考パターンを身につけられたかな・・

 

今では膝の力が抜けて、肩も柔らかい・・・

身体持ちも心持ちも相当軽くなってきた・・・・

 

 

 

 

今日も、明日も、明後日も、世界を「ありのまま」ボンヤリと眺めよう。

いままで身に着けていた「バイアス」という眼鏡を throw away して・・・

ただ、ただ、ボンヤリと・・・・

以上

景嗣

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