独自の発想ー「イチローの考え方を参考に」

どーも、景嗣です。

 

突然だが、僕は野球競技自体にあんまり興味ない。

差し詰め、『「球を投げる、捕手する側」と「球を打つ側」をそれぞれ攻守とし、攻守交代制で得点を競う、ってな感じの競技よねー』と、ボーっと感じるだけである。

野球のルール自体もあんまわからんのに、ましてや、野球選手や野球チームなどの詳細についてなんて、全然知らない。

 

こんなにも野球に鈍感な僕が、唯一興味を持つ野球選手がいる。

 

「イチロー」だ。

 

「イチロー」と言えば、もはや説明不要だろう。

野球界において、数々の伝説を残してきた男である。

あの年齢で、衰えを感じさせないパフォーマンスは流石としか言いようがない。

 

僕が「イチロー」のどんなところに関心があるか・・・

 

それは、「考え方」である。

 

何と表現すればいいか・・・・

 

仕事でもスポーツでも、どんなジャンルの世界にも、「定石」というか「常識」、「セオリー」みたいなのがあるじゃん。

それこそ、その世界に入れば、そういった「常識」に従うのが当たり前で、「とりあえずみんな従っておく」という風潮になるような、概念である。

 

たぶんね。

この常識に従っている人たちの大多数ってのは、実は、その「常識」が何を意味しているのか、あるいは、どのような機能をもたらし得るかを、真に理解していないように思う。

不思議なもんで、そういう「常識」を反復継続して行っていると、その「常識」が自分のパフォーマンスの地盤になってしまうため、潜在的にその「常識」が自分にとって「良い」と盲信してしまうことが多い。

それが真に自分のやり方に「合わない」場合であったとしても、だ。

 

 

ところが、イチローの考え方は面白い。

そういった、「常識」、「固定観念」が世の中に流布していることを踏まえて、「自分の感覚」を頼りに、ゼロベースから目的達成のための理論構築を行っているように思う。

それは、ときに「常識」、「固定観念」と緊張関係を生む結論である場合もある。

そういうときでも、その世界での社会的な常識に合わせるのではなく、あくまで「自分のスタイルに合うか合わないか」、「自分の目指す目的に合致するかしないか」の基準で、「良いか悪いか」を決している。

以下、動画を紹介する。

「イチロー」の打撃の極意、「イチロー」自身の感覚レベルから話が始まっているが、非常に論理的な考え方をしており、ズブの素人の僕でも納得のいく独自の理論である。

 

この動画で面白いのが・・・・

 

『「詰まる」のが「負け」という発想は捨てた方がいいです』という部分である。

 

僕は野球に詳しくない。おそらく「詰まる」ってのは、ボールをバットの芯に捉えられず、芯よりも内側の方で打撃してしまったときを指すのだろう。

まぁ、ひとつだけわかるのは、野球界において「詰まる」という状態が生じる時には、「常識的には」、「負け」であるということだろう。

確かに、芯を外していると、イイ打撃は生まれないだろうし、手に余分な負荷がかかる。それは感覚的にわかる。あまりよろしくない状態だ。

 

ところが、よりレベルの高い世界で戦うことを想定した場合、野球界における「詰まる=負け」という「常識的な考え方」を切り捨てた方が良いと、彼は説いている。

 

僕ね、ホントにこういう考え方、好きなのよ。

常識に盲目的に従わず、独自路線で自己目的を達成する感じのさ・・・

好きやわぁ・・・

 

もうひとつ面白い動画を取り上げてみよう。

動画の後半を見て頂きたい。

彼は、普通に投げ込みを行う場合と、誰かと雑談しながら投げ込みを行う場合を比較して、後者の方が投げ込みの後の疲れが残らないことに気づいたという。

そこから、彼は、一つの仮説に辿り着く。

 

「意識を違うところに持っていくことで、何かが分散される」

「集中させてしまうことによって、何かが分泌されなくなる」

 

一般的に、スポーツの練習の中では「集中する」ことが良いような見方をされることが多いが、練習メニューの種類や状況によっては「逆に」意識を分散させておく方が低燃費で高パフォーマンスを発揮できて、結果的に練習効能を高められる場合もあるというわけだ。

 

自分の経験・感覚からゼロベースで何かを思索して、何かしらの仮説・結論を導くスタイル。完全に彼の中からしか生まれない独自の発想である。

その、、、周りの人間に伝わる伝わらないを別にして、だ。

 

こういう考え方も僕は非常に好きである。

独自説をつくっていく感じの。

いやぁ、好きやわぁ・・・

 

 

武道の世界では・・・・

「守」「破」「離」という、修練観がある。

「守」とは、師の教え、「格」をそっくりそのまま学び実践していく修練観である。

「破」とは、師の教え、「格」を「法」の適う範囲でアレンジを加えて修練していくという修練観である。

「離」とは、師の教え、「格」から離れて、独自の「格」を見出し、それに基づいて修練していくという修練観である。

まぁ一般的には、自己の技の習熟レベルに比例して、「守」→「破」→「離」という段階に移行するというふうに説明されるが・・・

 

 

これを踏まえて・・・

 

ここからは、イチローの思考パターンのどういうところに僕が魅力を感じているのか、また、それに関連した僕自身の感覚について少しだけ話をしてみよう。

 

僕は何も最初から「常識」に従うことなく、独自の路線を行くことが良いと思っているわけではない。「常識」として昔から言い伝えられていることは、往々にして選手にとっては何かしらの効用をもたらし得ることが多いのも事実である。そうでなければ誰も語り継いでいかんだろう。

「常識に従う奴なんてカッコ悪い!! 俺はカッコ良く見られたいから、深い意味はないが独自の路線でいくぜっ!! シェゲナベイべッ!!」とか言うのは最悪である。

こういう浅はかな動機を独自路線を採る原動力とする輩ならば、早々にブッ潰しておいた方がよい。

(学生時代、こういう後輩がいてさ。ソイツの態度にブチギレて、ボコボコにしたことが1回あるwwww)

 

 

僕は、独自の発想をするにせよ、飽くまで「常識」というか「その世界における基本」の存在をしっかり意識しておくのが前提であるように思う。

 

そういうスタンスで、一旦、『「常識」が絶対的な善である』というバイアスを取っ払って、ゼロベースで独自理論を組み立てていくのだ。

 

そうすると、目的達成のためのエッセンス・本質を独自に分析することで、その「常識」が目的達成のために真に有効であるか否かを考えることができる。

以上のことのみならず、仮に「そんなにも有効でもないぞ」と思えた場合、その「常識」がどういう背景で生まれたのか、例えば、「この常識を考え流布させた人は目的達成とは別のレベルの、何かしらの思惑を以て、この世界に当該常識を普及させていったのかな」とか、「その当時、大事にされていた価値観が、現代の価値観と乖離していたのかな」とか。こういう独自の思索へ繋げていくことができるのである。

そういうイマジネーションを通じて、思わぬ仮説、真理に辿り着くことが、まぁまぁ多いように思うのだ。

 

 

少林寺拳法をやっていて、常に思う。師が教える技をとりあえずは吸収するものの、「これってこうした方がいいんじゃねぇの??」って自分なりに試行錯誤するのね。

不思議なことに、その過程で、

「あっ、なるほど。これがその技の本質だったのか。だとすると、あのとき師が教えてくださった『基本』というのは、やっぱり理に適っているわけだ。なるほど」

「だとすると、あのおっさんが教えている技ってのは、真に理屈に適っていないわけだ。本質の埒外だな。とんだペテンだ、まったく」ってな感じで、

 

「自分の、『本質を見る目』が肥えてくるように思う」

 

僕の修練観はこうだ。

「守」→「破」→「守」→「破」→「離」→「守」→・・・・

師の教える「基本」を忠実に吸収することが前提である。その後、独自の発想で試行錯誤を繰り返すも、何度も「基本」に立ち返ることを忘れない。その度に、「基本」の真意・本質を問う過程がある。常に、だ。

モノスゴイ遠回りのように思えるが、結局こういう過程を経ていかなければ、モノゴトの「本質」が見えてこないように思う。

その間に自分の頭の中で何度も混乱が起こる。当たり前だ。

おそらく、イチローもこの狭間を何度も行き来していたに違いない。求道者ならば、必ず通るコンフリクションである。

 

別にこれは、少林寺拳法に限った話ではない。

現代の社会制度・社会通念・社会慣行など、これらを独自の発想で眺めることによって、改めて既存ルールの優位性に気付くこともあれば、逆に現代において真に妥当しないのではないか、といった見方をすることもできる。

案外、おもしろいのだ。こういう考え方は。

 

 

まぁ、僕の好きそうな話だろう??

「独自の発想」は、既存のルールや「常識」、「固定観念」の存在意義や本質を評価するための「大事なきっかけ」と「有効なツール」だと思うのね。

 

「昔の人もそうだし、周りのみんながやっていることだから、何も考えずそれに従っておけば無難だね」という人がまぁまぁ多い。

まぁ、それも一つの生き方である。自分が満足するならば、それも一興である。

社会人である場合、「保身」のために、敢えてそれに喜んで従う者もぎょうさんいる。僕はそんなやつをたくさん見てきた。

 

しかし、みんながこういう考え方をしたんでは・・・

その既存のルールや「常識」、「固定観念」が、現代において、不効率さを生んでいるかもしれない。そういう真実に誰も辿り着かないんじゃないか・・・

 

その瞬間、人間の進化・その世界の技の進化が止まるんじゃないか・・・

 

独自の発想をすることで、あらゆるリスクが生じるかもしれない。

 

しかし、自分のレベルを上げていくことを考えた時に、頭ごなしに基本に従うだけでは突破できない場面が出てくる。必ずだ。

 

そういうとき、問わねばならない。その世界における技の「本質」を。

 

おそらく、モノゴトの「本質」を自分の頭で探し求める過程にこそ、自己成長のエッセンスが隠されているように思う。

 

各人の生き方、採るべき思考パターンは人それぞれであるが、

少なくとも、僕自身はイチローのようなモノの見方と考え方を心がけていきたい。

「生涯求道者」で在り続けたいものである。

以上

景嗣

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