「煩悩クリエイター 稲田ズイキ」 襲来 その3

どーも、景嗣です。

 

さて、「『煩悩クリエイター 稲田ズイキ』襲来」シリーズもいよいよ「その3」に突入した。

前稿「その2」、前々稿「その1」を事前に読んでおくことを強く勧める。

以下、「その1」「その2」のリンクを以下に貼っておく。

「煩悩クリエイター 稲田ズイキ」 襲来 その1

「煩悩クリエイター 稲田ズイキ」 襲来 その2

 

本稿シリーズを読み進めるにあたりひとつ留意されたいことがある。本稿の中で、「あれっ?? この記述間違っているぞ」という箇所もあるだろうと思う。

ある種、宗教観に近い議論だ。諸説ある中のひとつの立場に立脚したうえで弁論しているものもある。また、僕の知識不足でミスリードしたものを記述している可能性もある。どうか稲田ズイキ和尚のセリフの中で誤謬が見つかった際には、僕の理解不足であるとあっさり切り捨ててほしい。彼は素晴らしい僧侶である。間違うこともあれど、間違いは極めて少ないはずである。

 

さて、いよいよだ・・・・ 「人生問答」の核心といっても過言ではない・・・

問わねばならない・・・

「生老病死」の議論について、真っ向から斬り込んでいきたい。

さぁ、僕を愉しませてくれ。稲田ズイキ和尚。

 

「ときに、和尚。仏教では古くから、人間生まれてこの方付き合っていかねばならない苦しみというのがある、と伝えられているよね。僕の認識では、『生・老・病・死』が代表的なものとして挙げられるよね。老いて若き日の輝きを羨むのは苦しい。病気に罹患し痛みに耐え忍ぶことも苦しい。なお、死ぬことも苦しかろう」

 

「思うに、これらの苦しみの原点は『生』に集約される。老いも病理も死も、全ては『生』から醸成されている副産物。ゆえに『生』こそが人間が被る最大の苦しみではないかと思うのね。この際、社会的な倫理観なんぞ度外視して頂いても構わない。『生』こそ最上級の苦しみ。釈迦はこういう真意のもとに『生老病死』を唱えたんじゃないかな。だとすると、なにゆえ『解脱』といった、苦しみからの解放のための生き方の軸をお示しになられるのか。『生』ある限り、苦しみからは不可避であるというならば、もはや釈迦の唱えている苦しみからの解放なんぞ、絵に描いた餅ではないか」

 

さぁ、どう出る? 和尚。

さぁ、僕に示すのだ。

 

「うん・・人間最大の苦しみが『生』であるという認識は合っているように思う。これといった答えは断言できないけども・・・・先ほどの『欲』≒『煩悩』の話に戻るけども、『人間が煩悩を消すのは不可能であって、その煩悩を自覚するだけでもエライ』っていうのも『生』あるからなんだよね。『生』あるゆえに・・・・ 絶対に、お腹は減るし、迷惑な性欲も沸くし、時間的・空間的限界のため選ばれずにツラい思いをする。これは常に『生』あるがゆえにもたらされる苦しみだ。景嗣くんの認識で相違ないように僕も思う」

 

「しかし、ここが面白いところなんだけど、実は釈迦は人間の人生をいくつかのステージに分けているんだ。俗世において『肉体のある生を享受する、ステージ1』、人間上の寿命が来て肉体を失い『精神のみの自己として、仏になるために修行する、ステージ2』。煩悩を全て捨て去り、解脱という境地に至るのは、『ステージ3』なんだ。実は、釈迦の説いている『解脱』『涅槃寂静』という境地は『俗世における肉体を失っていることが前提』なのね」

 

「つまり、釈迦の教えが本格的に活きてくるのは、実は死んで肉体を失い仏になるスタート地点に立ったときなんだ。『俗世の生あるうち』は実践できなくて当然。何となく感じる矛盾もそこから来てるんじゃないかな??」

 

「よく言われることなんだけど、釈迦は『凄腕のコンサルタント』なんだ。聞いたことないかな?? 『禅問答』ってのを。困った人に向けて『こうしてみろ』と一言いって、悟りを開かせるあれ。きっと、釈迦はそれぞれのステージにいる人に相応する処世術を唱えたかったんだと思う。『生ある人』には『生ある人』の処世術があって、おそらくそれがケーススタディの『禅問答』だと思うの。ほんで、訓示として残っているお経については往々にして、ステージ2以降の人達の処世術なんだと思うのね」

 

「釈迦は、あらゆる処世術を、そのステージごとの人に応じて、手を変え品を変え実践していた。経典として残したのがたまたまステージ2以降の人に対する処世術が主要だった。ただそんだけのことだと思うよ」

 

(この時点で、稲田ズイキ和尚のボルテージは既にMAXだったwww)

 

 

・・・なるほど、これは良いことを聞いた・・・

 

僕は仏教のことを知っているとはいえども、飽くまで少林寺拳法経由での考え方のみを知るに過ぎない。純粋に仏教をイチから学んでいればわかるバックグラウンドをすっ飛ばしていたらしい。

僕の勉強不足だ。誠に恥ずかしい・・・

 

話は戻って。

経典になるほどの、釈迦の教えというのは、もはや肉体のある『生』あるうちは実践不可能なのだ・・・

 

そうだ・・・・今思えば・・・

 

正真正銘の僧侶というのは、常に仏壇に身体を向けて、お経を唱えておられる。

あれは、肉体を、『生』を失い、精神のみが残り仏にならんとする者に向けて話していたのか・・・

 

思えば・・・

過激派宗教のペテン師どもは・・・

こういう抽象的な教えを、肉体ある、『生』ある我々の方に身体を向けて、高らかに唱えているな・・・・

 

「仏道の本質を読む」とは、こういうことも含まれるかもしれん・・・・

 

目の前の教えを信じるか信じないか・・・そういう観点もさながら。

 

『各人、どう解釈するのか・・・』

 

仏教というものの世界観を解釈する人間側の力量・度量も、仏教を具体化していくうえで非常に重要なエッセンスであるように感じた。

 

MEDIAリテラシーならぬ、HOTOKEリテラシーである。

 

神様? 仏様? いや・・・

人・人・人。

この世の事物は、すべては、

人々の思惑による、人々のための、人々による営みである。

 

各人、どのように宗教の考え方と向き合うのか・・・

これも重要な視座ではなかろうか・・・

 

こういう考え方は、宗教観に限らない。

あらゆる事物に対して、有効になり得る観察態度であろう・・・

 

 

稲田ズイキ副住職よ。今回、会食の機会を賜り、誠に感謝している。

自分の中で「ハッ」となる部分がたくさんあり、非常に勉強になった。

南無〜 (合掌)

 

 

(二人、お会計を済ます)

 

 

「いやー、今日は本当にありがとうね。楽しかったよ。また飲もうよ」

 

「そうだね。また会おう。ほんでさ。僕が始動し始めてる企画があるんだ。仏教てさ、やっぱり一般大衆からすると敷居が高いような印象があるじゃない。だから『仏教の日常的な実践―様々な活動から見る仏教 (仮)』ってのをやってみようと思うんだ。景嗣くんもよかったら、この企画に参加してよ」

 

「和尚の頼みなら、なんなりとwww いつでも呼んでよ」

 

近々、おもしろいことに参加させてもらえるかもしれん。愉しみである。

 

「ところで和尚、今日の予定は??」

 

「あー、WEB関係の仲間たちと飲みに行くんだ。楽しみだよ」

 

「そっか。じゃあ、またね。バイバーイ」

 

「おう、バイバーイ」

 

 

「正式な坊主」こと稲田ズイキ副住職は、

居酒屋に向けて足を運び始める・・・

至高の美酒をかっ喰らわんとして・・・・

 

 

そして、

「喧嘩坊主」こと景嗣は、

ネオン街に姿を消していく・・・

至高の美女をかっ喰らわんとして・・・

 

 

・・・・・・

「お前ら、どんだけ『煩悩』にまみれるんじゃーーいwwwwww」

「おいぃぃーーーーーwwwww」

 

「煩悩クリエイター」のパワーよ。侮り難し・・・

異常www

景嗣

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