現代人は何にお金を払うのか その2
どーも、景嗣です。
「現代人は何にお金を払うのか その1」の続編です。
長くなって申し訳ない。もう少し付き合ってほしい。
「その1」の記事のリンクを以下に貼っておく。各自確認されたい。
さて、現代人は他にどんなことにお金を払うんだろうか。なるべく変化球的な視点で見ていきたい。ストライクゾーンを外してても気にしないでね。
キャラクターグッズはどうだ。
僕は今、居間でブログを打っている。目の前には、ミニ〇ンのボブの姿がたくさん見える。ボブのぬいぐるみ、ボブのクリアファイル、ボブの柄をした缶詰など。(はっ、横を見れば、ボブのチョコレートがあった。うちはボブだらけだな。可愛らしいからエエけど)
うちの母がボブを愛してやまないのである。毎晩、母は僕がプレゼントしたボブのぬいぐるみを抱いて就寝するのである。
きっと、架空のファンシーなキャラクターを愛でることで、行き場のない母性本能を満たしているのだろう。すまんな、僕が孫をつくれたら現実の子を愛でることができただろうに。(きっと僕は一生、子を成せないと思う。許せ、母さん。)
これも一種の現実世界では味わえない仮想世界での体験を買っている一例と捉えることができる。
ブランド品はどうだろう。
ショッピングに付き合ってるとときどき、ブランド品の値段を見てひっくり返りそうになる。「こっ、この布キレが3万円だと・・バカな・・」。真珠の良さがまったく理解できない豚、すなわち僕は泡を吹きそうになるのである。
社会ではブランド品を身に着けている者が崇拝される傾向にある。そして、その物の良さを疑問視する者は「これだから貧乏人は・・」という侮蔑の視線を向けられるのである。
まぁ、本当に物が良くて便利である場合は格別、一般的にブランド品は「社会的地位の高さの象徴」であるという共通認識があるような気がする。そのブランド品を持つことで、自分の社会的地位の高さを誇示し、ブランドの良さをわかっている (つもりの) 者が崇拝されるという構図が出来上がるわけだ。
僕の率直な意見を言おう。ブランド品を媒体にした社会ヒエラルキーなどまやかしに過ぎない。「ブランド品を身に着けている俺はエラいんだぞ」という仮想世界に陶酔したいのだろう。「仮想世界」がつくりあげた、「まやかしの地位」を買うという意味では、これまでの例に当てはまるのかもしれない。
個人的には、大金を払ってブランド品を身に纏う奴より、安物をカッコよく着こなせるように試行錯誤できる奴の方がよっぽど人間的にカッコいい。ブランド品自体に人間のカッコよさの本質はないと思うのね。
もういいだろうか。そろそろ僕が何を言いたいのかが何となく見えて来たんじゃないか。これまでに述べてきたことは、僕の主観的な印象に過ぎない。本当に参考までに聞いてほしい。本当に。
最近の現代人、僕から見たら、「現実世界では解放できない閉じ込めた感情を爆発させることのできる『仮想世界』を享受するため」にお金を払っている傾向にあるような気がするんだ。
それが悪いとは言わない。前掲ブログ記事「幸せの形とは」で触れたが、幸せの形とは各人の感じ方次第なところがある。仮想世界に溺れることがこの上ない愉悦とするならば、それも一興として尊重されて然るべきであろう。何も後ろめたく思う必要はない。
ただ、これだけは言わせてほしい。。
アナタが溺れて陶酔して、快感を味わっているその仮想世界。所詮、誰かが創作した「贋作」に過ぎないのだ。
夢の国を例に挙げるが、そもそも「夢」の形に定型的な形が存在するはずがないんだ。商品・サービスとして共通化・一元化された世界が体現されている時点で既におかしいのだ。それは、あくまで企業の金稼ぎのツールに過ぎない。
百の贋作は一の本物には勝てない。いつまで百の贋作に大金を払い続けるつもりなのか。まぁ、贋作の麻酔作用にいつまでもトロけているがいい。
経済活動の波に必要以上に巻き込まれるのはまだいい。
このままだと、ものごとのリアル・本質を見失う可能性がある。
武道未経験者の諸君は、武道の組手・乱取をどう思うか。拳士どうしお互いガンガンしばき合うあれだ。
大概の者は「野蛮だ。友達を無くすぞ」と思うだろう。そう言われたことが何度もある。
それは違うのだ。断じて違う。
組手・乱取を終えた者たちは必ずお互いに白い歯を向けて笑い合うのだ。
お互いの間合いを探り合い、肌でぶつかり合った相手とは必ず仲良くなる。そこに勝ち負けなど、もはや関係ない。正直これに例外はないと思う。
たとえ、戦いの結果、お互いが大ケガを負うことがあっても決してマイナスではないのだ。むしろ戦いの傷の大きさと数だけ、より強い友情で結ばれる。これが感覚としてわかるのだ。
これほどまでに尊い経験・感情が他にあるだろうか。少なくとも僕はこれに勝るものを知らない。
こういったことは、リアルで戦ってきた人間しか感じることができない。リスクを避け、自己満足に陶酔する仮想世界の住人には絶対に辿り着けない境地だ。「絶対に」だ。
「仮想世界」をお金で買える時代が来てしまった。企業は「仮想世界」が売れる商品だとわかったら、自己の利益のためにどんどん「仮想世界」を市場にバラ撒くだろう。そして、より「仮想世界」が普及していく。
この経済活動の渦に流されると、無駄なコストを支払うだけでなく、あなた自身、心高鳴るリアルな経験を積む機会を奪われるのかもしれない。その危険性が十分にあり得るような気がする。
「仮想世界」にお金を払うだけで、気軽に色んな経験をしたつもりになれる。それはそれで悪くはない。しかし、現実でやればいいことにわざわざお金を払う必要があるのか。リアルでするからこそ得られる感情・経験を得た気になって人生を終えてもいいのか。
現代人の「欲の形」、甚だ理解しかねる。
(あくまで僕の主観に過ぎないのだが。。。)
・・・という話を鍼灸師の先生にベラベラ喋ってたのよー。一週間前くらいに、首に鍼を刺されながらー。
そしたら鍼灸師の先生が一言。。。
「景嗣くん、そういう主張を考えるのも『欲』やで。」と。
・・・だぁあああ!! 1本取られたぁあああ!!
「欲の形」もやっぱり人それぞれですね。それは重々念頭に置いておこう。迂闊に片面的な見方をするのはよくないね、
やっぱり。僕自身、「仮想世界」の良さをもうちょっと観察してみるのも悪くないかもね。
以上
景嗣
仮想世界
仮想世界の住人には3通りいると思う
現実世界と思い込んでいるタイプ
仮想世界と分かっているタイプ
考えない・気にしないタイプ
どれも彼等の心は充実している
どれも善悪では分けられない
どれも、どちらにも言い分はあるだろう
お勧め程度なら耳を傾けるのは3番目くらいだろう
悪く言えば面倒な事は考えたくない
良く言えば自由
1番目、2番目に何か言おうもんなら
ドンパチしかねない
ほっとくのが一番
彼等に極めた境地、昇天しかける感動を勧め、理解してもらうのは神業
既に考えてかたーい殻で固まっているんだもの
そこで出てくるのは3番目
お勧め程度でも、他人の話を心のどこかに残しておく余裕がある人達
彼等には『共感』の余地がある
リアルな世界の入り口に目を向ける力はある